21
明け方。
日が昇り始める頃に宵はベッドを抜け出した。
昨日、近くに湖があると聞いたので散歩がてらに行ってみようと思っていたのだ。
水辺にいると落ち着くから。
ジャージに着替えて薄手の羽織を肩に掛け、まだ眠っている二人に聞こえないように、いってきます、と言い置いた。
朝の清々しい空気と、ひんやりとした霧。
春霜が地面の草にしっとりと降りている。
気持ちがいい。
林道を通り、舗装された道をまっすぐにひた歩く。
徐々に下降していく道をたどれば。
「わぁ……大きい」
前方に泰山を抱く大きな湖が姿を現した。
湖にはところどころ沼地があり、鳥たちが飛来してはせわしなく魚を取ったり歩き回っている。
――鷺の姿も。
白鷺だけでなく、蒼鷺や五位鷺など、色々な種類がそこにいた。
きれいだなぁ、とぼうっと景色を見つめる。
ガードレールからつい身を乗り出していると。
「あぶないぞ」
暁が背後にいた。
「わ! びっくりした」
「おまえが行っても仲間だとは認識されないと思うが」
「沼になんて行きません!」
暁はTシャツにハーフパンツ、肩にはタオルをかけている。
「……もう体調は大丈夫なんですか?」
「ああ」
「ランニング……ですか」
「まあ」
「……」
暁が自分から会話を提供するタイプではないことは宵も気付いていたが、宵も似たようなものだった。
いつもは生徒会の誰かと一緒にいて、暁と二人で会話することなど、学園に入学してからのおよそひと月の間で一度もなかった。
「あやめ先輩が、心配してました」
「……うん」
暁が隣に立って湖に視線を向ける。
綺麗な横顔は宵から見れば冷たく感じて、少し怖い。
でも、あやめと一緒にいるときの無防備な顔をもう見慣れているから、本当は優しいひとなのだと知っている。
「夢のこと、あやめ先輩にお話されてたんですね」
「あやめに出会ったとき、最初に伝えた。ずっとあいつが俺の夢に出てたから」
暁の夢に、あやめが出てくる。
宵には初耳だった。
それは暁の未来にあやめがいる、ということ。
それはどんな夢で、どんなふうに。
宵の聞けないけど聞きたい、口を引き結んだ微妙な表情を見て暁はふと口元を緩めた。
「はは。思ってることが全部顔に出るんだな。学園で最初に会ったときもそうだった」
「え?!」
「俺の背中にぶつかって、真っ青になったかと思ったら、あやめを見て真っ赤になった」
そうでしたっけ……と誤魔化しながら宵は顔を背けた。
恥ずかしい。
「そういえば。先日は万理が無礼なことを言ったと」
笑っていた暁が急に表情を引き締める。
「改めて、俺からも謝罪をと千歳に言われた」
「あ、あのことですね。いや、わたしは全然気にしてなくて……。むしろわたしが、鷹宮先輩のことを何も知らなかったから、万理先輩のご気分を害してしまって」
「それぞれに役割がある。知る知らないは要不要だ。そちらが役割上不要だと判断したことに、こちらが勝手に憤るなんて、あってはならない。だからおまえは何も悪くない。すまなかった」
理路整然と理由を述べられて、宵はほんのり万理に罪悪感を抱く。
万理の、暁大事ゆえのあの発言だったのに。
感情で言葉を発してはいけないなんて、鷹宮は厳しい。
それが宵の感想だった。とはいえ、暁に謝罪されるというのは恐れ多い以上にちょっとした優越感……。
「いえ、本当に、わたしはもうこれで忘れます。わざわざ、ありがとうございます」
「こちらこそ」
湖の上を恵風が渡る。
朝日が稜線の向こうから斜めに昇り始め、世界が白く輝き始めた。
今日はいい天気になりそうだった――。
もう少し走ってくる、と言う暁を止めた方がよかったかと迷いながら宵は一人、宿泊所に戻ってきた。
まだ早朝で、部屋に戻ってもあやめはまだ眠っていた。
「あら、おかえり」
「早いですね、千歳先輩」
千歳はすでに着替えを済ませ、荷物をまとめていた。
部屋にも性格が出ていて、千歳のベッド周りは整頓されほとんど何もないが、あやめのベッドの周りには持ってきた遊び道具や衣服が散乱している。
宵の枕元にはペットボトルがいくつか。
「湖、綺麗でしたよ。日の出みたいに太陽が昇って」
「朝強いのね」
「そうなんです、早起きは得意で。そろそろあやめ先輩起こします?」
あやめを起こし、簡単な身支度を済ませるのを待って三人で食堂に向かった。
食堂にはすでに暁が戻ってきていた。暁の正面に万理も座っている。
「おはようございます」
「おはよう」
あやめが暁の隣に座り、真っ先に顔を覗き込む。
「昨日は眠れた?」
「ああ、ちゃんと」
「ならよかった。痛いところはもうない?」
あやめの真剣な表情に暁は真面目に頷く。
それを見てやっとあやめも笑った。
食堂ではすでに実行委員の何名かが朝食を始めていて、宵たちも食事を取りにいこうとしたそのとき、窓際の席に座っていた生徒がにわかに騒ぎ出す。
なにごとかと、宵たちも窓の外を見る。
先ほどまで快晴だったはずの空が、ほの暗い。
暁が窓際に駆け寄るのに遅れて、あやめと宵もそれに倣う。
窓の外、まるで墨を流したような空に一羽の、黒い影。
暁の目にはしっかりと映るその影は。
「……鷹だ」
「え? 鷹?」
あやめや他の生徒には黒い点でしかないそれは、暁にははっきりと見えている。
宵の目にも。
一羽の鷹が山からまっすぐこちらに向かって飛んでくる。
そして一羽、さらにもう一羽と、雪だるま式に鷹の数が増えていく。
そんなまさか。
その黒い鳥の集団は、宿泊所に近付きながらさらに膨れ、広がる。
黒いカーテンのように。
「な、何あれ?! どういうこと?! 暁って、仲間呼べるの?」
万理が黒い鷹の群衆を指さして半ばパニックで暁に問う。
「いや、そんな話は……聞いたことない、俺も」
「ま、まっすぐ向かってきてます……よね?」
千歳の言葉に、みんなで顔を見合わせる。
……まっすぐこっちに飛んできたら、どうなる?
「ひ、避難しよう!」
誰かがそう叫ぶと、生徒たちが一斉に食堂のドアへ突進した。
千歳と万理が誘導に向かう。
「建物の反対側に出よう! まだ食堂に来てない人は起こして!」
その間にも鷹の集団は増殖していく。
そろそろ普通の人の肉眼でも視力の高い人であれば羽根を広げて飛んでくる姿が捉えられる距離。
「わ、わたしたちも、避難を……」
そう促した宵の前で、暁がガクンと膝を折った。
あやめが振り向く。
「暁!」
頽れそうになった暁の体をあやめが支える。
さっきまで平気そうにしていたのに、急に肩で荒く息をしている。
「暁、あかつき……!」
あやめの呼び掛けにも答えない。
目をぎゅっと閉じ、あやめにしがみつく手が握りしめられる。
そのこめかみにじわりと汗が滲んだ。
「これ……昨日と同じだ」
あやめが宵にそう言う。
昨夜、あやめと暁が食堂に入ってきたときのこと。
「宵ちゃん、宵ちゃんだけでも先に行って」
「え?! そんな、万理先輩呼んできますから!」
「大丈夫! 私がなんとか……!」
あやめがもはや引きずるように暁を引っ張るが、もう鳥の大群は目の前。
「む、無理です、あやめ先輩……! 鷹宮先輩!」
暁は呼び掛けに反応しない。
もしかしたら、意識がないのかもしれない。
そんな状態の暁をあやめが一人で運べるはずがない。
どうしよう。
食堂内はすでに宵たち以外もぬけの殻。
窓を覆う鷹の群れは、先頭の鷹の顔がはっきりと見えるほどにすぐそこ。
猛禽類の目はかなり怖い。
しかも、近づけば近づくほど、その大きさがわかる。
――怖い、どうしよう。
なんとかしないと。でも、どうやって?
宵の耳に、カツンと何かがぶつかる軽い音が聞こえた。
先頭の鷹の足の爪が窓を叩いている。
その周り、次々と鷹が窓にぶつかり始めた。
どうにかしなくちゃ。
――わたしが、わたしの力で。
徐々に、心臓の音が大きくなっていくのを感じて、宵は息を吸った。
遠くから、白鷺の鳴き声。
さっき見た、沼地の美しい鷺。
「宵ちゃん、早く……!」
「あやめ先輩」
宵があやめの左手を握り、そのまん丸な瞳をじっとあやめに合わせて、にこと笑った。
「え…………?」
「わたしがなんとかします。……信じて」




