17
はじめてその夢を見たのは、まだ幼い頃だった。
それは秋から冬に移ろう季節の変わり目で、体調を崩して熱を出してしまった日の夜。
苦しくて荒い息を繰り返し、食事もまともに摂れず、ひもじい思いで涙が出たがやっと眠れたのはおそらく明け方のこと。
目を開けると、自分の体に違和感を覚えて暁は手を見下ろした。
それは自分のものとは思えないほど大きい手だった。
立ち上がると、足も長く視点が高い。これは……僕?
顔を上げると、そこは崖。
空は明るく、薄い雲が強風に流されてあっという間に表情を変える。
見上げていると背後から熱を感じ、何気なく振り向いて、目を見開いた。
見知らぬ邸が燃えている。
それまでどうして気付かなかったのか不思議なほどに、轟々と音を立てて。
熱い。
熱気に押されて尻もちを着いた。
助けて、と言おうと思った。
けれど、声が出ない。
――逃げなくちゃ。でもどこに?
前方は炎と煙で赤黒く、背後は眼下に街が広がる。
怖くて震える。
どうすればいいのだろう。誰か。
助けを求めて目を瞑ったとき、本当に誰かに腕を掴まれた。
「大丈夫」
女の人の声。
暁は目を開けて隣を見ようとしたが、突風に煽られてまた目を瞑る。
「大丈夫。あなたは飛べるもの」
その人がそう言う。
飛べる? どういうこと?
暁が尋ねようとしてもやはり声は出ない。
その人が暁を引っ張り上げて立たせた。
手を引かれて崖の方へ歩いていく。
顔を上げると、長い髪が風に煽られて揺れていた。
あなたはだれ?
触れた手のぬくもりが心地よくて、暁は震える唇に、生まれてから一度も口にしたことのない言葉を飲み込んだ。
おかあさん。
崖の淵までたどり着くと、その人は暁の手を離した。
離れてしまうぬくもりがさみしくて、今度は暁がその人の手を掴んだ。
やっと、顔が見えた。
白いかんばせに、意志の強そうな眉。
大きな、灰色がかった瞳。
その人が暁の手を持ち上げて自らの頬に当てる。
にこり、と笑った。
「私のこと、忘れないでね。ずっと」
一瞬だった。
その人は暁の手を離すと、崖の淵から落ちていった。
「――――あやめ」
飛び起きて、額から噴き出す汗を拭う。
背中も、手のひらもぐっしょりと濡れていた。
息が上がっている。もう、朝。
鷹宮暁は手の甲で首周りと顔に触れてから、起き上がった上体をもう一度布団に沈めて目を閉じた。
夢と現実の狭間を彷徨う意識をゆっくりと切り離していく。
同時に呼吸を整える。
……どうして。
この夢は、いつも冬のはじめに見ていたのに。
重い体が泥のように溶けてなくなっていくよう。
夢の中の彼と同じように、現実の暁の手も震えている。
両手を持ち上げて、顔を覆った。何度見ても慣れることのない夢。
学園で鴉を見た日からだ。
あの日から、この夢の断片を見るようになった。
――私のこと、忘れないでね。ずっと。
「……忘れるのは、おまえの方だ」
拳を握って、暁は苦く歯の奥を噛み締めた。
「おはようございます、ぼっちゃん」
万理が襖を開けて部屋に入ってくる。
暁はすでに着替えを済ませて、開いた障子から外をぼうっと眺めていた。
「……どうした? 顔色悪いな」
万理が中に入って暁の顔を覗き込む。
「夢を見た」
「夢、って」
「例のあれだ」
それだけ言って暁が立ち上がる。
「食事はどうする?」
「食べる。多めに用意してくれ」
障子を閉めて廊下に出ていく暁に万理も続いた。
夢を見たあと、暁は食事の量が増える。
おそらく、力を使うことは体力を使うことなのだと万理は理解している。
どれくらい増えるかと言うと、普段の朝食が茶碗一杯の白ご飯に汁物、目玉焼きひとつとベーコン、付け合わせのサラダくらいだとすると、その三倍程度を朝に食べて、昼はさらにいつもの倍くらいを平らげ、夜はさらにいつもの三倍程度、といったところ。
厨房に立つ家政婦に、用意を頼まねばならない。
――と考えたところで思い直す。
今日はこれから文化祭・体育祭の合宿に出発するのだ。
学園で集合する前に、暁の食糧を調達しなければ。
合宿先の施設で出される食事量で満足できるはずがなかった。
あやめの家に車を横付けすると、あやめがボストンバッグをふたつも抱えて玄関から出てきた。
普段は自分で登校するから、と暁の申し出を断って徒歩通学しているあやめも、今日は荷物が多いから乗せてほしいと自分から頼んできた。
珍しいなと思いながら、暁は快く承諾した。
手伝おうとする運転手を止めて、暁が車を降りる。
「大荷物だな」
「おはよう。そうなの、いっぱいになっちゃって」
あやめから荷物を受け取ってトランクに載せる。
暁の荷物はぺしゃんこのボストンバッグひとつ。
まあ、女性は準備が大変だと言うから。
何か男にはわからない大切なものがたくさんあるのだろう。
そう納得しかけた暁にあやめが言う。
「ボードゲームとか、ボールとか、バドミントンとか持ってきたの! みんなで遊ぼうね」
「…………ああ」
一体何をしに行くつもりなんだか。
二泊三日を遊び倒そうとしているのは伝わってきた。
あやめが楽しいならそれでいいけれど。
二人が座席に座ると、車は静かに滑り出した。
「ばんくんとちーちゃんは?」
「準備があるからと先に出た」
「そう」
途端に車内が静かになる。
あやめが車窓に映る景色をなんとなく目に留めて、何かを思案している。
暁はその様子を黙って見ていた。
あやめの長い髪。
夢で見た突風の中では、さぞ邪魔だったことだろうとなんとなく考える。
でもその後ろ姿が綺麗で、暁はすぐにあやめを見つけることができた。
――繰り返し同じ夢を見ている。
内容は変わらない。
暁の見る夢は、未来。
それが暁の力。
「大丈夫?」
唐突にあやめがそう言った。
一瞬、ここがどこだかわからなくなって暁は瞬きをした。
「……ああ、うん。大丈夫」
「顔色良くないね」
しまった。
今朝、万理にもそう言われたのだったと暁は思い出す。
朝食を食べて、体力は回復したと思ったのに。
「寝不足で。でも問題ない」
心配されないように取り繕うが、あやめは何も気にしていないふうに言う。
「そう? 少し寝る?」
あやめが自身の肩を軽く叩いた。
ここで寝ろ、という意味らしい。
暁は迷わずにあやめの肩に頭を寄せた。
あやめの匂いがする。
まるくてやわらかで、さわやかな。
ほんのかすかな匂い。
見た目はあでやかな華のようなのに、ほんとうは飾らないあやめそのもののような。
「すぐ学校着いちゃうけど」
「……惜しいな」
あやめの隣は心地いい。
大袈裟に心配したりしないし、いつも暁を優先しない。
いい意味で。
馬鹿なことを言っても、困ったり呆れたりしない。
ここにいれば、暁はただの暁でいられる。
目を閉じる。
ずっとこのままでいられたらいいのに。
未来など来なければいいのに。




