13
暁と、その相手――フェンシング部のキャプテン・小野が礼の代わりに手元の鍔を触れ合わせる。
二人ともにマスクをかぶり、いよいよ試合が始まった。
二人が前後に動くたび、シューズが床を擦るキュ、キュという音が響く。
じりじりと間合いを詰めては離れて。
剣先がクロスしては離れてを繰り返す。
剣が触れる度、バネをはじく金属音がする。
最初に仕掛けたのは暁だった。間合いを詰めて切っ先を伸ばす。
小野は落ち着いてそれを躱し、そのまま暁の胴に腕を伸ばした。得点。
先制された暁が、空気を入れ替えるようにマスクを外す。
その黒髪が現れた瞬間、会場中の女性たちからため息がこぼれた。
暁はすぐにマスクを着けなおし、対戦が再開される。
宵が隣を見ると、あやめはゆったりと腕を組んで冷静にその試合を眺めている。
「あやめ先輩……、平気そうですね」
「え?」
「鷹宮先輩のこと、心配してなさそうだから」
視線を一瞬宵に移してから、あやめはまた暁を見る。
その表情は落ち着き払っていて、宵の方がそわそわしてしまう。
「うん、心配なんてしてない。だって、勝つのは暁だもの」
あやめがそう言ったとき。
暁の右足が大きく前に出た。
地面に着いたそのまま、ワンステップでもう一歩踏み出す。
間合いの詰め方が想定の二倍になり、怯んだ小野の胴に暁の剣先が入る。
暁の得点だった。
「ね」
あやめが宵に笑いかける。それは誇らしげに。
そしてあやめの宣言通り、もしくは万理の予想通りに。
暁はその後、追加得点を許すことなく勝負を制した。
暁はマスクを放り投げると、サーベルを握ったまま、まっすぐにあやめのところに戻ってきた。
あやめがコンコースから客席の一番下まで優雅に降りていき、暁に左手を差し出す。
少しの乱れもなく完璧な暁は、ゆっくりと、あやめの左手を取って優勝を報告した。
会場が今日一番の大歓声に包まれる。宵はぼうっとその光景を見ていた。
*
夜。
入浴を終えた宵は、部屋で髪を乾かしていた。
鏡に映る銀白色の髪がドライヤーの温風に揺れるのを見るとはなしに眺める。
今日の出来事が目の奥で鮮明に、映像のように再生される。
あやめの長い髪。繋いだ手。
暁を見つめる横顔。
暁があやめの頬に触れたときの優しそうな瞳。
無表情な人だと思っていた千歳のいたわるような、申し訳なさそうな表情。
万理の、宵の無知さへの隠せない嫌悪。
一日で受け止めるには情報量が多くて、宵は自分の感情についていけなくて思考を止める。
考えたくない。騒がしいのは苦手だった。
「鷹の一門」と千歳は言った。
千歳と万理は暁のおさななじみだと、最初に言っていたではないか。
万理は知っているのだ。
鷹宮が抱える何かを。
宵は、自身の家が抱えるものをまだ知らない。
それまではママがすべてを一人で担っていたから。
ママが死んだとき、家の者が宵の前に膝を折って、次の神在月にお出ましになりますよう、とだけ言った。
手配はすべて、各地の白鷺の使いたちが整える。それだけを教えられて。
――それだけでいいと思っていた。
役目を、言われたままに全うするだけ。
だって、ママは宵に何も言わなかったのだ。
宵には自由でいてほしいから、と。
ドライヤーのスイッチを切って立ち上がる。
障子戸を開けると、朧月が池の上にかかっていた。
つっかけに足を入れて池のほとりをトボトボと歩く。
ほんのり冷たい風にパジャマの裾が揺れた。
池を覗き込むと、池の中にもちゃんと揺れる月が映っていて、その下を朱色の鯉がひらりと泳いでいく。
その眺めを見るだけで、心が凪いでいく。
あやめの横顔を思い出す。
誰かがその横顔に重なって、でもそれが誰だったのか、思い出せない。
……こんなので、やっていけるのだろうか。
高校に入学してまだひと月も経っていないのに、宵の気持ちは些細なことでゆらゆらと不安に飲み込まれていくようだった。
翌日、南門まで送ってもらい車を降りると、下駄箱で万理が待っていた。
宵が足を止めると、もたせかけていた背中を浮かして近付いてくる。
「お、おはようございます」
宵は肩にかけた鞄の持ち手をぎゅっと握る。
警戒するなんて失礼かもしれないが、もはや条件反射になっていた。
万理が間近まで迫ってくると威圧感が大きい。
背が高いのだ。父の清貴はもとより、暁よりも大きい。
宵の家には清貴以外の男性がいないし、これまでもずっと男性とは縁遠い生活をしてきた。
こんなふうに間近で見下ろされるのはほとんど初めてのこと。
じりじりと後ずさろうにも、当然足の長さが違うので、距離の詰め方が異常に速い。
――いや普通にこわい!
「な、なんなんですかっ、万理先輩!」
「なにって」
「ち、近いです! ちょ、来ないでください!」
「ええ、だって、近付かないと会話できないじゃん…?」
壁際まで追い詰められても万理は止まらない。
覆い被さるように壁に手をつかれた。
万理は宵の怯えた反応を見て、楽しんでいる。
「ごっ、ごめんなさい、ごめんなさい!」
その場にしゃがみ込み、鞄を盾にして宵はもはや半泣きで謝った。
なぜ謝っているのかは自分でもわからない。
とにかくこれ以上近付いてくるのをやめてほしい。
さらに小さくなった宵に満足したのか、やっと万理が止まった。
と思ったら、そこで第三者の声が万理を呼んだ。
「万理要」
フルネームで呼ばれた万理は一瞬固まり、首を百八十度回す。
聞いたことのない低い声で万理を呼んだのは千歳だった。
「あんたって本当に……私は謝りなさいって言ったはずよ。逆に謝らせてどうするの」
「べ、別に俺が謝らせたわけじゃないだろ! こいつが勝手に」
「怖がらせて楽しむなんて悪趣味が過ぎる! いい加減にしないと、暁さま呼んでくるわよ。もう報告はしておく」
「お、おい」
暁の名前に怯んだ万理の顎を、千歳がむんずと掴んで揺さぶる。
「言ったでしょ。鷹には鷹の、白鷺には白鷺のやり方があるの。私たちは何もできないんだから、軽々しく口を挟むんじゃないわよ」
万理は反論しようにも口を開くことすらできない。
「わかった?」
千歳の有無を言わさぬ問いに万理はただ頷く。千歳は万理から手を放すと今度は座り込んだ宵を立ち上がらせた。
「申し訳ありません、宵さん」
「え……っと……」
千歳が頭を下げる横で、万理がそっぽを向く。
「あろうことか、三家の方に提言して、あまつさえあんなふうに怖がらせるなんて。とんでもないことです。どうぞお叱りを」
「えっ? いや、叱るだなんてそんな」
「申しましたでしょう、私たちは鷹の一門。鷹に仕えるもの。白鷺の次期当主に逆らってただで済む身分ではありません」
宵はただただ千歳と万理を見る。
この場をまとめろ、と暗に言われている気がした。
宵は人やその場を取りまとめたり、自分が中心になるのはどうしても苦手だ。
まして自分の意見を言うなど。
「か、顔を上げてください、千歳先輩。わたしは、何も気にしてませんから」
千歳は微動だにしない。
その言葉では梃子でも動かない、という意思表示のように。
「ゆ……許します、許しますから! 万理先輩は、もうわたしにいじわるしないって約束してください!」
やっと千歳が顔を上げる。
ずっと向こうを向いていた万理も宵を見た。千歳がふっと笑う。
「万理? 約束して」
「……はぁ。はいはい。わかりましたよ、努力しまぁす。いじわるしないって」
不満げな、反抗的な態度を改めることなく万理がそう言うが、宵はとにかくこの場から解放されたことに心から安堵した。
◇◇◇
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