第一話 高級マンションに潜む影(後編)
第一話は、「浄霊できちゃった、ちょっと普通じゃない普通の女子大生―その除霊、ネットの知識で大丈夫?【短編】」に載せてある内容と同じものです。
少し長いので、(前編)、(中編)、(後編)に分けました。
……静寂が訪れる。
残ったのは、びしょ濡れの床と、ゼーゼーと肩で息をするわたし。そして、空になったファブリーズのボトル。
「……な、奈美……あんた、すごすぎ……」
京子が震える声で呟いたけれど、わたしはそれに応える余裕もなかった。
「……京子。あとで、ファブリーズ代、請求するからね……。あと、クリーニング代も……」
床に座り込む沙織さんは、まだぼんやりとしているけれど、その瞳には確かに、さっきまでなかった「生きた人間」の光が戻っていた。
しかし、戦いはこれで終わりではなかった。
朽ち果てた写真の束の下から、一枚の「真っ赤な封筒」が姿を現したのだ。
わたしは膝をつき、肩で息をしながら、朽ちたゴミの山から顔をのぞかせているその「赤い封筒」を手に取った。
指先に触れた瞬間、嫌な予感が全身を駆け抜ける。これまでの「マサト」のモヤとは違う、もっと冷酷で、計算された悪意が封筒全体にべっとりと張り付いているような感覚だ。
「奈美、それ……」
京子がおそるおそる隣で覗き込む。
わたしは震える手で、その封筒を破いた。中から出てきたのは、一枚の古い便箋と、折り畳まれた不気味な紙。
便箋に書かれていたのは、整った、けれどどこか執念を感じさせる筆跡の短い文章だった。
『沙織へ。君のそばに「最高の人材」を送っておいたよ。これで君も、もう寂しくないね。マサトは君を愛し、君を逃さない。ずっと、ずっと、僕の代わりに。』
……文章の最後には、歪んだハートマーク。
そして、一緒に同封されていた紙を広げた瞬間、わたしたちは息を呑んだ。
それは、沙織さんの「戸籍謄本」のコピーだった。
しかし、ただのコピーではない。沙織さんの名前の横に、赤い筆で別の男の名前が書き足され、婚姻届を模したような、気味の悪い「擬似的な家系図」が描かれていたのだ。
その男の名前の欄には、一言だけこう書かれていた。
『マサト(仮)』
「これ……呪いってレベルじゃない。沙織さんの個人情報を完全に握ってる、ストーカーの仕業だよ……」
わたしの言葉に、京子が顔を真っ青にする。
つまり「マサト」は、自然発生した幽霊などではなかった。
誰かが沙織さんの髪の毛や持ち物を盗み出し、この「赤い封筒」を起点にして、人工的に作り出した『執着の塊』を送り込んだのだ。
その時、静まり返ったリビングで、沙織さんのスマートフォンが震えた。
通知画面に表示されたのは、登録されていない番号からのメッセージ。
『マサトを追い出すなんて、ひどいな。……次は、もっと「強力なやつ」を直接届けに行くからね。』
……直後、マンションの下でオートロックが解除される「ピピッ」という電子音が鳴り響いた。
「ピピッ……ガチャン」
静寂に包まれた廊下に、オートロックが解除された音が響く。さらに、エレベーターがこの階に向かって動き出す機械音が、死刑宣告の足音のように聞こえてきた。
「どうしよう、奈美! 来ちゃう、誰か来ちゃうよ!」
京子がパニックになりながら私の腕を掴む。沙織さんはまだ床に座り込んだまま、恐怖に顔を強張らせて震えている。
絶体絶命。けれど、私の頭の中は不思議と冷えていた。
ボロアパートでの経験が教えてくれている。こういう時は、怖がった方が負けなのだ。
「……京子、沙織さんを連れて奥の部屋に隠れて。ドアは絶対に開けないで!」
「えっ、奈美は!?」
「私は……ちょっと、この『赤い封筒』の主に、ご挨拶してくる」
私はトートバッグから、最後の一本――予備で持っていた「激落ちくん」のメラミンスポンジと、飲みかけの「おーいお茶」を取り出した。
ネットの怪しい知識その二。
『呪いの品を送り主に突き返せば、その呪いは倍になって本人に返る(通称:呪い返し)』。
私は赤い封筒の中の『擬似的な家系図』を取り出し、沙織さんの名前をメラミンスポンジで力一杯こすり落とした。その上から、お茶(カテキンは浄化に効くはず!)をドボドボとぶちまける。
「沙織さんの名前を消して……その代わり、このマサトってやつを、あんたのところに完全帰宅させてあげるわ!」
私は玄関のドアスコープを覗いた。
エレベーターが止まり、廊下を歩いてくる人影が見える。黒いコートを着た、ひょろりとした男だ。手には、またあの不気味な赤い封筒を持っている。
男が沙織さんの部屋の前で立ち止まり、ニチャァ……と嫌な笑みを浮かべてドアノブに手をかけた瞬間。
私は思い切りドアを蹴り開けた。
「おらぁぁ! 宅急便(呪い)の返品でーす!!」
叫びながら、びしょ濡れになった家系図の紙を男の顔面に叩きつける!
さらに、手に残っていた粗塩を「節分の豆まき」以上の勢いで男の目潰し代わりにぶちまけた。
「ギャアァァッ!? 目が、目がぁ!!」
男がのけぞった瞬間、目に見えない「何か」が男の体へ逆流していくのが分かった。
部屋の中に漂っていた最後の黒いモヤが、シュルシュルと音を立てて男の影に吸い込まれていく。
「い、嫌だ! 来るなマサト! 僕だ、僕だよ! ぎゃああああ!!」
男は自分の影に首を絞められるような格好で転げ回り、そのまま逃げるようにエレベーターホールへと転がっていった。
……数分後。
遠くで警察のサイレンの音が聞こえてきた。京子が裏でこっそり通報してくれていたらしい。
「……終わった、のかな?」
ひょっこりと部屋から顔を出した京子に、私は空になったお茶のペットボトルを掲げて見せた。
「うん。……でも、もうお茶もファブリーズもないから、次が来たら本当にお手上げだよ」
こうして、私の「二度目の除霊」は、警察沙汰という最高のオチがついて幕を閉じた。
――数日後。
大学のラウンジで、京子から「沙織さん、すっかり元気になって、あのマンションも引き払って実家に帰るって」という報告を受けた。
そして、私の手元には、沙織さんからのお礼だという「高級カタログギフト」と、京子からの「高級焼肉食べ放題」の約束が残された。
「ねぇ、奈美。やっぱりあんた、才能あるよ! 今度、私の知り合いの親戚の蔵でさぁ……」
「二度とやらないって言ったでしょ!!」
普通の女子大生に戻りたい私の叫びは、またしても京子の強引な笑顔にかき消されるのだった。
――完――




