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第一話 高級マンションに潜む影(中編)

 第一話は、「浄霊できちゃった、ちょっと普通じゃない普通の女子大生―その除霊、ネットの知識で大丈夫?【短編】」に載せてある内容と同じものです。

 少し長いので、(前編)、(中編)、(後編)に分けました。


「はい、どうぞ。熱いうちに飲んでね」


 沙織さんが差し出してきたティーカップが、カチャリと音を立ててテーブルに置かれる。わたしたちの前に二つ、そして、誰もいないはずの椅子の前に一つ。


「沙織、その……一つ多いけど、誰の分?」


 京子が引きつった笑顔で尋ねると、沙織さんは心底不思議そうに首を傾げた。


「え? 『彼』の分に決まってるじゃない。紹介するわね、こちら、いま私と一緒に住んでいるマサトさんよ。とっても優しくて、私のことを一番に理解してくれるの」


 沙織さんは空席に向かって蕩けるような笑みを向け、まるで実在する恋人の肩を抱くように、虚空を優しく撫でた。

 ……その「虚空」には、どす黒い澱みのようなモヤが蠢いている。マサトと呼ばれた「それ」は、沙織さんの指先が触れるたび、嬉しそうに形を歪めていた。


「最初はね、ちょっと怖かったのよ。ラップ音がしたり、物が勝手に動いたりして。でも、ある晩彼が枕元で囁いてくれたの。『君が一人で寂しそうだったから、守りに来たんだよ』って」


 沙織さんの語るエピソードは、聞けば聞くほど常軌を逸していた。

 彼女が仕事で失敗して泣いていると、冷たい手のような感触が涙を拭ってくれるのだという。夜、眠れない時は、耳元で古い子守唄のようなハミングが聞こえてくるのだという。


「最近はね、彼が食べたいものも分かるようになったの。……生肉とか、少し傷んだ果物とか。彼、ちょっと好みが変わってるんだけど、喜んで食べてくれるから作り甲斐があるわ」


 沙織さんの視線の先、テーブルに置かれたカップの中身が、不自然に波打った。

 ……ズズッ、と。


 何かが液体を啜るような、湿った音が静かなリビングに響く。


「ね? 彼も、二人に会えて嬉しいみたい」


 満足げに微笑む沙織さんの横で、京子の顔面はすでに蒼白だ。

 わたしの視界では、その「マサトさん」のモヤが徐々に膨れ上がり、沙織さんの背中から首元にかけて、愛着のあるペットが飼い主にまとわりつくような仕草で絡みついているのが見えた。

 いや、あれは甘えているんじゃない。……少しずつ、彼女の生命力を吸い取って、同化しようとしているんだ。

 ネットの掲示板にはこう書いてあった。『悪霊は、孤独な心に付け込み、理想の存在に化けて住み着く』と。


「……ねぇ、沙織さん。そのマサトさんって、いつからそこに座ってるの?」


「いつからって……もうずっと前から、そこにいたような気がするわ」


 沙織さんはうっとりと夢見心地な表情で答えましたが、その視線は虚空を見つめたまま、ぴくりとも動かない。

 わたしは喉の渇きを感じ、お茶に手を伸ばそうとして――手が止まった。

 ふと、沙織さんの背後にある、少しだけ開いたクローゼットの隙間が気になったのだ。

 この豪華なリビングには似つかわしくない、嫌な、生温かい風がそこから漏れ出ているような気がして。


「……あ、あの、沙織さん。ちょっとお手洗い借りてもいいかな?」

「ええ、いいわよ。廊下を出て右側にあるわ」


 わたしは京子に「ちょっと待ってて」と視線で合図を送り、席を立った。

 お手洗いに向かうふりをして、そのまま廊下の突き当たりにある、沙織さんの寝室であろう部屋のドアを、音を立てないように少しだけ開けてみた。


「……うわっ、なにこれ……」


 思わず声を押し殺した。

 寝室の壁一面には、びっしりと「黒い糸」が張り巡らされていたのだ。

 それはまるで巨大な蜘蛛の巣のようで、その中心――ベッドの真上の壁には、何十枚もの写真がピンで留められていた。

 恐る恐る近づいて見てみると、それはすべて沙織さんの隠し撮り写真だった。

 会社に向かう姿、スーパーで買い物をする姿、そして――この部屋で眠っている姿。

 すべての写真の沙織さんの目は、黒いマジックで執拗に塗りつぶされ、その代わりとして、写真の余白には無数の「目」が描き込まれていた。

 さらに異様なのは、床に置かれた大きな水槽だ。

 中には水など入っておらず、底には大量の「髪の毛」と、沙織さんのものと思われる爪や、使い古した歯ブラシが山のように積み上げられていた。


 ネットの知識が、わたしの頭の中で警鐘を鳴らす。

 ――これはただの幽霊じゃない。

 誰かが意図的に作り上げ、沙織さんに植え付けた『呪い』の祭壇だ。


「……奈美さん、何してるの?」


 背後から、低く、湿った声がした。

 振り返ると、そこにはいつの間にか沙織さんが立っていた。

 いいえ、沙織さんの姿をした「何か」が。

 彼女の肩越しからは、あの黒いモヤ――マサトが、蜘蛛のような細長い脚を伸ばし、わたしの足元まで這い寄ってきていた。

「勝手に見ちゃダメじゃない。……マサトさんが、怒っちゃうわよ?」


「……っ、やばい!」


 沙織さんの瞳の奥で、ドロリとした黒い影が渦巻いている。マサトと呼ばれた「それ」の細長い指が、わたしの首筋に触れようとした瞬間、わたしの脳内で何かがプツンと切れた。

 恐怖が限界を突破して、一周回って「逆ギレ」モードに突入したのだ。


「……人の部屋に勝手に入って、何がマサトよ! 何が怒っちゃうわよだ! 許可なくこんな気味悪い工作して、この部屋の管理規約はどうなってんのよ!!」


 わたしは叫びながら、トートバッグから「武器」をひったくった。


「食らえ! 界面活性剤の力!!」


 シュッ! シュシュッ!!


 至近距離から、除霊効果を(勝手に)期待したファブリーズをマサトの顔面……らしきモヤに連射した。

 さらに、間髪入れずにポケットから取り出したのは、ボロアパート時代に編み出した必殺の「聖水(自称)」――中身は、コンビニで買った天然水に、おばあちゃんから送られてきた粗塩をこれでもかとブチ込んだ特製濃縮塩水だ。


「除霊! 浄化! 営業妨害!! 帰れ! 二ート幽霊の親戚!!」


 キャップを外したボトルから、塩水を聖水撒きのように部屋中にぶちまける。

 すると、どういう原理か(たぶんわたしの気迫と塩分の濃度がすごすぎたせいか)、壁に張り巡らされた黒い糸が、ジチチッ……と焦げたような音を立てて弾け飛んだ。


「ギィ、ア、アアアァァ!!」


 マサトが耳をつんざくような悲鳴を上げる。

 沙織さんの背後にいた黒いモヤが、塩水とわたしの罵声にひるんで、ズルリと彼女の体から剥がれ落ちた。


「京子! ぼーっとしてないで、そこのカーテン全開にして! 太陽光をぶち込んで!!」


 わたしの怒号に弾かれたように、リビングから京子が駆け込んできて、遮光カーテンを一気に引き剥がした。

 午後の強烈な西日が、呪いの祭壇と化した寝室に突き刺さる。


「ア……ッ、あ…………」


 沙織さんが糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。

 それと同時に、マサトだった「影」は、光に焼かれるように霧散し、壁の写真も、床の水槽に詰まった髪の毛も、まるで数十年放置されたゴミのように一瞬で茶色く変色し、ボロボロに朽ち果てていった。



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