第一話 高級マンションに潜む影(前編)
第一話は、「浄霊できちゃった、ちょっと普通じゃない普通の女子大生―その除霊、ネットの知識で大丈夫?【短編】」に載せてある内容と同じものです。
ある日、わたしのもとに『お祓い』の依頼が舞い込んできた。
……と言っても、差出人は得体の知れない誰かではなく、大学のゼミ仲間である京子だ。
「ねぇ、知り合いのマンションなんだけどさぁ。奈美、お祓いしてくんないかな?」
カフェテラスで唐突に切り出されたその言葉に、わたしは飲んでいたカフェオレを吹き出しそうになった。
断っておくが、わたしは拝み屋の家系でもなければ、霊能力の修行をした記憶もない。どこにでもいる、至って普通の女子大生だ。
「……えっ、なんでわたし? そういうのはプロに頼みなよ。神社とかお寺とか」
「それが、本業の人には頼めない事情があってさ……」
京子の話は、こうだった。
中学時代からの親友が一人暮らしを始めたのだが、当初は「部屋で変な音がする」「誰かに見られている気がする」と怯えて相談してきていたらしい。ところが、ある日を境にぴたっと相談が止まった。
解決したのかと京子が尋ねると、彼女は虚ろな目で「もう大丈夫。全部解決したから」と答えたという。
「でも、明らかに様子がおかしいの。急に独り言を言ったり、誰もいない空間に向かって笑いかけたり。心配でお祓いを勧めたんだけど、『余計なことしないで!』ってものすごい剣幕で怒られちゃって……」
話を聞くうちに、わたしの背中に嫌な汗が流れた。
以前、ネットのオカルト掲示板で読んだことがある。「それ」に魅入られた人間は、異常な状態を「幸せ」だと思い込み、外部からの干渉を極端に拒むようになるのだ。
「あー……そのタイプ、一番厄介なやつじゃん。本人が自覚してないどころか、その異常に依存しちゃってるやつ……」
「そうなの! だから奈美、お願い! 一緒にその部屋に行って、見るだけでもいいから! 奈美なら『新しい友達を紹介する』って名目で、自然に部屋に入れてもらえると思うんだよッ!」
京子がわたしの両手をがっしりと掴む。
……待って。なんで話が勝手に進んでるの?
「ねぇ、京子。言っとくけど、わたしは幽霊なんてこれっぽっちも見えないし、お化け屋敷だって全力で拒否するくらい怖がりなんだよ? わたしの時は、あれはホントに……《・・・・》たまたま、なんとかなっただけ。素人がお祓いごっこなんてしちゃダメだってこと、分かってる?」
「分かってる、分かってるよ! でも、あの子を放っておけないんだよ……!」
必死な形相の京子を前に、わたしの防御壁はもろくも崩れ去った。
結局、「見るだけなら」という条件で引き受ける羽目になったわけだけど……。
友達の頼みを断れない自分の性格が、今は恨めしくて仕方がない。
そもそも、平凡を絵に描いたような女子大生のわたしに、京子がこんな物騒な相談を持ちかけてきたのには、それなりの理由がある。
それは、わたしがいま住んでいる、家賃一万円の格安ボロアパートにまつわる「武勇伝」を、うっかり彼女に話してしまったからだ。
大学入学と同時に田舎から上京してきたわたしは、専門家に頼むお金なんて一円も持っていないド貧乏学生だった。
なのに、ようやく見つけた格安物件には、先客として「幽霊」が居座っていたのである。
夜な夜な枕元に立たれたり、金縛りにあったり。普通なら泣きながら引っ越す場面だろうが、こちとら生活がかかっている。
「幽霊が出るくらいで、この家賃を手放してたまるか!」
そんな切実すぎる生存本能に突き動かされたわたしは、オカルト小説や除霊漫画、さらには怪しいネット掲示板の知識を片っ端から総動員して、孤独な戦いを開始した。
部屋の四隅に盛り塩をぶちまけ、YouTubeで般若心経を爆音で流し、セージの葉を燻して部屋中を煙まみれにする。
それでも出ていかない図太い霊に向かって、最後は半べそで包丁を振り回しながら叫んだ。
「家賃も払わない居候のくせに、偉そうにするんじゃなーい! 出ていけ! このニート幽霊!!」
……その執念が通じたのか、あるいはわたしのあまりの剣幕に幽霊がドン引きしたのか。
ある朝、目覚めると部屋の空気がスッと軽くなっていて、それ以来、怪異はぴたっと止まったのだ。見事なまでの成仏(?)である。
わたしとしては「極限状態の貧乏学生が、知恵と根性で勝ち取った生存戦略」という、ちょっと笑える自虐ネタのつもりで話したんだけど……。
どうやら京子のフィルターを通すと、これが『ネットの知識だけで怪異をねじ伏せる、謎のポテンシャルを秘めた専門外の専門家』という、とんでもない誤解に変換されてしまったらしい。
そんなわけで、いま、わたしの手元にはなぜか「ファブリーズ(除霊効果を期待)」と「通販で買った盛り塩セット」が入ったトートバッグが握られている。
「……ねぇ京子、本当に見るだけだからね? もしヤバそうだったら、速攻で逃げるから!」
「わかってるって! さあ、行こう!」
わたしの不安を置き去りにして、京子は意気揚々と歩き出す。
向かう先は、その「変わり果てた友人」が住んでいるという、都内の高級マンションだった。
案内されたのは、都内の一等地に建つ、見上げるようなタワーマンションだった。
「一万円のボロアパート」を戦場にしてきたわたしにとって、そのオートロックの重厚感だけで、すでに別の意味で気圧されそうになる。
エレベーターが音もなく上昇し、目的のフロアに着く。廊下にはふかふかの絨毯が敷かれていて、生活音ひとつしない。
京子がインターホンを押すと、少しの間のあと、内側からカチャリと鍵の開く音がした。
「いらっしゃい、京子。……あ、そちらの方は?」
ドアを開けたのは、モデルのように細く、白いワンピースを着た綺麗な女性だった。京子の親友、沙織さんだ。
一見、どこもおかしいところなんてないように見える。……けれど、わたしは彼女の顔を見た瞬間、心臓がドクンと跳ねた。
彼女の瞳だ。
焦点が合っているようで、合っていない。まるで、わたしの背後にいる「誰か」と、ずっと楽しそうに視線を交わしているような、薄気味悪い違和感。
「あ、こちら、大学の友人の奈美! 近くまで来たから、一緒に連れてきちゃった」
「奈美さん、っていうのね。ふふ、どうぞ、入って。……『彼』も、お客さんは大歓迎だって言ってるわ」
沙織さんは、誰もいないリビングの方を振り返って、愛おしそうに微笑んだ。
その瞬間、わたしの肌にチリッとした静電気が走る。ボロアパートで幽霊を追い出した時、嫌というほど感じたあの「嫌な空気」だ。しかも、あのアパートの比じゃないくらい、濃密で、冷たい。
「……お邪魔します」
足を踏み入れたリビングは、豪華な家具とは裏腹に、なぜかひどく寒かった。
沙織さんはキッチンへ向かい、鼻歌を歌いながらお茶の準備を始める。……でも、彼女が用意しているカップは、わたしたちの分を合わせても「三つ」ではなく「四つ」だった。
京子が不安そうにわたしの顔を覗き込んでくる。
(……ねぇ、どう?)
(……どう、って言われても……)
わたしはトートバッグの中で、ファブリーズのトリガーにそっと指をかけた。
正直、いますぐこの部屋を飛び出したい。
だって、沙織さんのすぐ後ろ。ダイニングテーブルの椅子に、明らかに「誰か」が座っているのだ。
それ(・・)は、真っ黒なモヤのような姿で、ゆっくりとこちらを振り向き、唇のない口を吊り上げて笑った。
……やだ、これ。ネットで調べた知識くらいで、どうにかなるレベルじゃない気がする。




