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番外編・第二話:【推し活×生霊】「推しのアクスタが、勝手に位置を変えるんです」


 平和。それは、家賃一万円のボロアパートにおいて、何よりも尊い資源である。

 私は今、特売で手に入れた一玉十九円のキャベツを千切りにしながら、その平和を噛み締めていた。


 ……はずだった。


「奈美さんッ! 助けてください、もう私、推しの顔が見られませんッ!」


 アパートの薄いドアが、建付けの悪さを無視した勢いで弾け飛ぶように開いた。

 飛び込んできたのは、大学のゼミの後輩で、学内でも有名な重度のドルオタ――もとい、アイドルファンである『えりか』ちゃんだ。

 その後ろには、もはや私の家の合鍵でも持っているんじゃないかと疑いたくなるほど自然な仕草で、京子が付き添っている。


「ちょっとえりかちゃん、包丁持ってる人のところに突進してこないで。危ないから」

「危ないのは私の心臓ですッ! これを見てくださいッ!」


 えりかちゃんが震える手で差し出したのは、アクリルスタンド――通称『アクスタ』だ。

 今をときめく男性アイドルグループ『Luminous』のセンター、ハルトくんの、キラキラした立ち姿。

 一見、何の変哲もないグッズだが、えりかちゃんの顔は蒼白だ。


「これね、奈美。えりかちゃんの話だと、寝る前に必ず棚の『特等席』に飾っておくのに、朝起きると必ず、彼女の枕元に移動してるんだって」

「……寝ぼけて自分で移動させてるんじゃないの?」

「最初は私もそう思いました! でも、三日前から、アクスタの『顔』が変わってきたんです……!」


 えりかちゃんがスマホで、購入当時のアクスタの写真を見せてくれた。

 確かに、写真は眩しいばかりの王子様系イケメンだ。

 しかし、今私の目の前にある実物のアクスタは――。


「……あれ。なんか、目が細くなって、顎が妙にシャープっていうか……全体的に『不機嫌そうなサラリーマン』みたいな顔になってない?」

「そうなんです! 私の元カレの『健二』にそっくりなんですッ!」


 えりかちゃんによると、最近別れた元カレの健二は、彼女の推し活に対して非常に否定的で、「俺よりアイドルが大事なのかよ」とネチネチ攻撃してくるタイプだったらしい。

 別れた後も「お前が俺の良さに気づくまで、ずっと見てるからな」という、これまたネットの掲示板で『典型的な粘着生霊予備軍』として紹介されるような捨て台詞を吐いていったという。


「ネットの知識(※マサト投稿履歴・第244条)によれば、『生霊は、対象が最も大切にしている依り代(依代)に憑依することで、精神的な支配を試みる』。……えりかちゃんにとって、このアクスタは聖域。健二の執念が、このプラスチックの板を乗っ取ったんだわ」


 私がアクスタに手を伸ばすと、ハルト(中身:健二)の顔が、わずかに歪んだ気がした。

 その瞬間、部屋の電気がチカチカと明滅する。


「……ッ、冷たっ!」

 アクスタに触れた指先が、ドライアイスに触れたような、焼け付くような冷たさに襲われた。


 これは、マサトのような『情報の化け物』とは違う。生きている人間の、ドロドロとした一方的な「片思い(という名の独占欲)」のエネルギーだ。


「奈美、どうするの? これ、ハルトくんの顔に戻せるの?」

「物理的に顔を書き換えるのは無理だけど……。この『健二』の念を、ハルトくんの輝きで焼き払うしかないわね」


 私は、えりかちゃんのトートバッグから、もう一つの三種の神器――『公式ペンライト』をひったくった。


「えりかちゃん、これ、一番明るい設定にして。……あ、ハルトくんのメンバーカラーは?」

「情熱の赤ですッ!」


 私はペンライトを点灯させ、最大輝度の赤色光をアクスタに至近距離で浴びせた。


「いい、健二! あんたの嫉妬なんて、一万人、十万人のファンの『愛』と、本物のアイドルの『職業意識』に比べれば、ただのノイズなのよッ!」


 しかし、アクスタはビクともしない。

 むしろ、赤色光を吸い込んで、健二の顔がさらに濃く、醜く浮き上がってきた。

「お前……俺を……無視するな……」という、低い呻き声がプラスチック板から漏れ出す。


「……チッ、公式の光だけじゃ、あっちの執着の方が『密着度』が高いわね。だったら、物理的に隔離してやるわ!」


 私はキッチンの引き出しから、本日のメインウェポンを取り出した。

 それは、実家からの荷物に使われていた、大量の『プチプチ(緩衝材)』と、『養生テープ(ピンク)』だ。


「奈美、プチプチで除霊するの!?」

「除霊じゃないわ、隔離よ! ネットの物理学(自説)によれば、生霊の念は『空気の振動』と『視覚的な執着』で伝播する。だったら、物理的な空気の層で遮断すればいいのよ!!」


 私はプチプチを十重二十重とえはたえにアクスタに巻きつけ、健二の姿を完全に視界から消し去った。


「プチプチの中にある無数の空気の部屋が、あんたの念を分散させて、迷子にしてやるわ! 一粒一粒が、あんたの執着を受け止める防壁よ!!」


 さらに仕上げとして、ペンライトをプチプチの束の中に無理やり差し込み、内側から発光させた。


「光の乱反射! プチプチの中でハルトくんのカラーを無限ループさせて、あんたの意識をホワイトアウトさせてやる! 公式の眩しさに耐えきれず、元カレはログアウトしなさい!!」


 プチプチの塊が、内側からの赤い光で激しく明滅する。

 中で何かが「ギャアアアッ!」と、耳をつんざくような高い音を立てた。


「えりかちゃん、今よ! あんたの『推しへの愛』を、この塊に叩きつけて!」

「はいッ! 健二、あんたの年収より、私はハルトくんのこの二の腕の筋肉が好きなのよぉぉぉッ!!」


 えりかちゃんの魂の叫びが、プチプチの防壁を越えて内側に届いた瞬間。


 パチンッ!!


 と、プチプチの粒がいくつか弾けるような音がして、中から黒い煙がシュルシュルと逃げ出していった。


 ……静寂。


 私はゆっくりと養生テープを剥がし、プチプチを解いた。

 そこには、元の、眩しいばかりの王子様スマイルを浮かべたハルトくんが戻っていた。


「……あ、ああっ、ハルトくーーんッ!! お帰りなさい、私の王子様ッ!」

 えりかちゃんがアクスタを胸に抱き、号泣する。


「……ふぅ。これで大丈夫。健二の念は、今の衝撃で本体(本人)に跳ね返ったはずよ。今頃、向こうは猛烈な頭痛か、アイドルアレルギーにでもなってるんじゃない?」

「奈美、すごすぎるよ! プチプチで『念の乱反射』を起こすなんて、梱包資材の革命だよ!」

「革命じゃないわよ。ただの物理的な隔離。……でも、えりかちゃん。しばらくは、そのアクスタ、このプチプチのケースに入れておいたほうがいいわよ。念のためのシールドとしてね」


 えりかちゃんは「一生守りますッ!」と宣言し、意気揚々と帰っていった。


 ……が。

 彼女たちが去った後、私はふと、自分のスマホを手に取った。


 ふと見たニュースアプリの端に、小さな広告が出ていた。


『あなたの「執着」、買い取ります。――フリマアプリ・メルカリ(偽)』


 ……また、あのアカウントの影だ。

 あいつは消えたはずなのに、人の心に「隙」がある限り、デジタルな怪異は形を変えて、何度でもログインしてくる。


「……はぁ。やっぱり、平和な生活なんて夢のまた夢ね」


 私は、残ったキャベツの千切りを、少しだけ乱暴に口に放り込んだ。


 ――番外編・第二話:完――



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