第八話:ネットの知識が使えない!? 真の除霊術を探せ
「……詰んだ。完全に詰んだわ」
私は、窓をアルミホイルで塞いだままの薄暗い部屋で、力なく膝をついた。
手元のスマホには、いつものオカルト掲示板。以前なら「最強の除霊メソッド」に見えていた書き込みの数々が、今は毒蛇の群れのように見える。
投稿者ID:『M_ASATO_88』。
私がボロアパートで幽霊を追い出し、沙織さんを救い、美月先輩のスマホを拭き上げ、教授のロッカーをパテで固めた、そのすべての「知恵」の出処。それは、私を追い詰め、執着し、ストーキングしていた黒幕――マサト自身だったのだ。
「奈美、おにぎり買ってきたよ。……って、まだその顔してるの?」
京子がレジ袋を提げて入ってくる。彼女は私の絶望を余所に、買ってきたツナマヨおにぎりを頬張りながら画面を覗き込んだ。
「でもさ、結果的に浄霊できてるんだからいいじゃん。あいつ、実は親切なんじゃないの?」
「そんなわけないでしょ! 考えてもみてよ。あいつの教えた方法で、あいつが送り込んだ呪いを解いてたのよ? これって、あいつが作った『ゲーム』のルールに従わされてただけじゃない。私はあいつの掌の上で、あいつ好みの『除霊師』に調教されてたのよ!」
恐怖と屈辱で全身が震える。
ネットの知識第百八条:『術の出処を疑え。毒から生まれた薬は、いつか毒に戻る』。
……これも、あいつの書き込みかもしれない。そう思うと、自分の思考さえもあいつに汚染されているようで吐き気がした。
その時、スマホが嫌な音を立てて震えた。
掲示板に、新しいスレッドが立ったのだ。
『【実況】今日、ついに「僕の最高傑作」を迎えに行く。最後の仕上げは、彼女自身に「自分」を浄霊させること。』
スレ主は、もちろん『M_ASATO_88』。
コメント欄には、私の部屋の外観写真がアップされていた。しかも、一分、一秒刻みで近づいてくる足元の写真と共に。
「来る……。今度こそ、あいつ自身が来る!」
「奈美! どうするの? 掲示板に書いてある方法、全部罠なんでしょ!?」
パニックになる京子の横で、私は必死に頭を回転させた。
ネットの知識は使えない。ファブリーズも、重曹も、アルミホイルも、あいつが「効く(ことにした)」アイテムに過ぎない。もし今、私がファブリーズを構えれば、あいつはそれを合図に、私を完全に「向こう側」へ引きずり込む儀式を完成させるだろう。
「……捨てなきゃ」
「え?」
「今まで培ってきた『オカルトの常識』を、全部捨てるのよ。あいつが知らない、あいつが予測できない『真の除霊術』を見つけないと……!」
私は部屋中を見渡した。
アルミホイルを剥ぎ取り、盛り塩をゴミ箱に捨て、クイックルワイパーをへし折った。
あいつが用意した武器をすべて排除する。
残ったのは、何の変哲もない、ただの汚い四畳半。
ドォォォォン!!
一階の玄関が、建物ごと壊れるような音を立てて開いた。
階段を上がる、ゆっくりとした、けれど確実な足音。
一段、一段。それは私の心臓を直接踏みつけるようなリズム。
「奈美! 何か、何か武器はないの!?」
「武器なんてないわよ! ネットに書いてあることは全部嘘なんだから!」
足音が、私の部屋のドアの前で止まった。
隙間から、あのドロリとした黒い霧が染み込んでくる。
ドアノブが、カチャリと回った。
「……見つけたよ、奈美さん。最後の仕上げの時間だ」
ドアを開けて入ってきたのは、黒いコートの男――マサト。
その顔は、半分がノイズのように歪み、もう半分は、かつてビデオで見たあの「異常な恋人」の笑顔だった。
彼の手には、一通の、今までで最も大きく、真っ赤な封筒が握られていた。
「さあ、いつものようにやってごらん? ファブリーズを撒くかい? お経を唱えるかい? それとも、また何かを『掃除』して、僕を喜ばせてくれるのかな?」
マサトが右手を差し出す。その指先からは、無数の「黒い糸」が伸び、私の手足に絡みつこうとする。
私は、震える足で立ち上がった。
手には、何も持っていない。
ただ、一つだけ。
私は、実家から送られてきたばかりの『田舎の、泥がついたままのジャガイモ』を、買い物袋から掴み取った。
「……は?」
マサトの動きが、一瞬止まる。
「何だい、それは。……新しい術式かな? 大地のエネルギーとか、そういう……」
「違うわよ、ボケ!!」
私は全力で、そのジャガイモをマサトの顔面に叩きつけた。
「これは、お母さんが土を耕して、肥料やって、草むしりして育てた、ただの! 生き抜くための! 食糧よ!!」
ベチャッ、という生々しい音。
マサトの顔面に土が飛び散る。
それは情報の海でも、デジタルノイズでも、呪術的なシンボルでもない。
ただの、圧倒的な『現実』の塊だった。
「グ……アッ!? なんだ、これは……!? 私のノイズが、読み込めない……!」
「ネットに書いてないこと、教えてあげるわよ! あんたが画面の中でカタカタやってる間に、私はこの一万円の部屋で、必死に生きてんの! 家賃払うためにバイトして、泥臭い飯食って、現実の汚れと戦ってんのよ!!」
私は、京子が持ってきたレジ袋の中身をぶちまけた。
「食らえ! 半額シールのついたお惣菜の残り香! 溜まりに溜まった電気代の督促状! そして、私が昨日出した『ガチの生活ゴミ』!!」
私はゴミ袋を振り回し、マサトを殴りつけた。
あいつが構築した「綺麗な呪いのシステム」に、私の「汚い生活の現実」を叩き込む。
デジタルな怪異にとって、意味を持たない、分類できない、ただの『ノイズとしての生活臭』は、最強のバグとなって襲いかかった。
「ギ……ギャアアアア!! 汚い……! 意味が分からない! 私のシナリオが、崩れる……!!」
「整理整頓? 浄霊? そんなの、余裕がある奴がやることよ! 私は今日を生きるのに必死なの! あんたの作った『物語』なんかに、私の人生を上書きさせてたまるか!!」
私はマサトの胸ぐらを掴み、その耳元で叫んだ。
お経でも、呪文でもない。
この一ヶ月、あいつのせいで溜まりに溜まった、本物の怒り。
「――二度と、私の前に現れるな。この、ニートストーカー野郎!!」
その瞬間、マサトの体が、古いテレビの電源を切った時のように一転に収束し、激しい光を放って弾け飛んだ。
……爆風。
アルミホイルがすべて吹き飛び、部屋中にジャガイモとゴミが散乱する。
静寂。
目を開けると、そこには、ただのボロボロの四畳半に座り込む、私と京子。
そして、床に落ちた、色が抜けて真っ白になった「封筒」の残骸だけが残っていた。
「……終わった……?」
京子が、ジャガイモを頭に乗せたまま呆然と呟く。
「……うん。終わった。……ネットの知識じゃなくて、私の『怒り』で、勝ったんだわ」
私は、自分のスマホを拾い上げた。
画面を見ると、例のスレッドは削除されていた。
そして、あのアカウント『M_ASATO_88』は、跡形もなく消えていた。
「……奈美、すごいよ。真の除霊術って、まさか『生活感』だったなんて……」
「……もう、どうでもいい。……ねぇ京子。とりあえず、掃除しよ。……今度は、浄霊のためじゃなくて、私の生活のために」
私は、泥だらけになった床を見て、今日一番の、深い溜息をついた。
――第八話・完――




