すべて、最初から決まっていた
「フェリクス、今日の観劇だが予定を変更する」
朝の執務室で書類を確認していたレオンハルトは、机の前に控えていた従者へそう告げた。フェリクスは一瞬だけ意外そうな顔をしたものの、すぐにいつもの表情へ戻る。
「エリシア様とのご予定でしたはずですが?本当によろしいのですか?」
「ああ。私は行けなくなったと伝えてくれ」
「また、急なご公務が入った、と?」
レオンハルトは手元の書類から目を上げなかった。
今日予定されていた演目は、自分からエリシアへ見たいと言ったものだった。そのために彼女が互いの予定を調整し、随分前から席まで取っていたことも覚えている。
本来なら、予定を変えるのであれば自分から説明すべきなのだろう。
だが、今は余計な話をエリシアとするわけにはいかなかった。まともに取り合えば聡明な彼女はすぐにこの想いの変化に気付いてしまうだろうから。
「殿下」
フェリクスが珍しく、その場を離れずに口を開いた。
「本日は……ミレイユ様とお出かけになるのでしょうか?」
レオンハルトはようやく顔を上げた。
「・・・知っていたのか?」
「最近、殿下がアルセイン公爵家の次女様とお会いになっていることは存じております。・・・差し出がましいことを申し上げますが、もしエリシア様に見られましたら説明が難しくなるかと」
「お前は知っているだろう?今日までじゃないか。明日には、もう隠す必要もなくなる」
「……承知いたしました」
フェリクスはそれ以上何も言わなかった。
「エリシアには、急な公務で行けなくなったとだけ伝えてくれ。余計なことは言わなくていい」
フェリクスは一礼して部屋を出る。扉が閉まったあと、レオンハルトは椅子の背へ身体を預けた。
フェリクスの言いたいことが分からないわけではない。
自分には婚約者がいて、その婚約者の妹と二人で出かけることが、世間からどう見られるかも理解していた。
だからこそ、これまでは人目につかない場所を選んできた。しかし明日になれば、その必要もなくなる。レオンハルトはそう考え、机の端に置いていた一枚の封書へ目を向けた。
差出人は宮廷神官ガレウス・オルティス。
中に書かれている内容は、すでに何度も読んで確認している。
”明日の《清魔の儀》について、準備は滞りなく進んでいる”
それだけ分かれば十分だった。
_________
昼を少し過ぎた頃、レオンハルトは王家の馬車でアルセイン公爵邸の近くまで向かっていた。公爵家の正門へは入らず、少し離れた場所で待っていると、やがて屋敷の裏手からミレイユが姿を見せる。
従者を一人伴っていたものの、レオンハルトの馬車を見つけると足早に近づいてきた。
「殿下、お待たせしてしまいましたか?」
「いや、私も今来たところだ。乗ってくれ」
レオンハルトが手を差し出すと、ミレイユは嬉しそうにその手を取り馬車へ乗り込んだ。扉が閉まり、馬車が動き始める。
向かう先は劇場だった。
「本当に行くのですね」
しばらくして、ミレイユが少し不安そうな声を出した。
「嫌だったか?」
「嫌ではありません。ただ……今日は、お姉様と観劇する約束だったのでしょう?」
「予定は断ってある」
レオンハルトは窓の外を見ながら答えた。
「それに・・・もうすぐ隠す必要もなくなるだろう?」
「……明日のこと?」
ミレイユは膝の上で両手を重ねた。
「本当に大丈夫でしょうか」
「ガレウスからも準備は整ったと連絡が来ている。君が心配することはない」
「でも、もし何かおかしいと気づかれたら……」
レオンハルトは断言した。
「清魔の儀で使われる測定具はガレウスが管理している。表示される結果も、記録に残る内容も彼が処理することになっている」
「お父様やお母様にも?」
「公爵夫妻には何も知らせていない」
ミレイユが顔を上げる。
「知らないままでいいの?」
「むしろ、その方がいいだろう?彼らは少々硬すぎる嫌いがある」
レオンハルトはそう言って、向かいに座るミレイユを見る。
「知っている者が増えれば、それだけ話が漏れる可能性も高くなる。それに、公爵夫妻が何も知らずに君の結果を信じれば、いかに聡明なエリシアでも違和感には気付かないだろう?」
「……確かに、お父様なら喜んでくれそうです。」
聖属性であることを何より重視するアルセイン公爵家だ。エリシアが十五歳で聖属性適正がAと判定されたとき、ベルナールがどれほど誇っていたかはレオンハルトも知っている。
その上を行く才能が現れれば、どうなるかは想像するまでもなかった。
ミレイユは少し黙り込んだあと、窓へ視線を向けた。
「数値だけで人間の価値が決まるわけではない。流石に誇張も含まれるだろうがエリシアは適正値ではA評価だったが、その後の鍛錬で既にS相当の実力を身につけたという噂をきいたぞ?」
「殿下はそう言ってくださいますけれど、お父様たちは違います」
ミレイユの声には、幼い頃から積もったものが滲んでいた。
「お姉様が聖属性適正Aだと分かったとき、お父様は親戚中に自慢していました。王太子妃になるのも当然だって。私はその横で、ずっと『エリシアを見習いなさい』と言われてきたんです」
「ミレイユ」
「勉強も、聖魔法も、礼儀作法も、お姉様の方が上でした。お姉様が悪いわけではありません。でも……どんなに努力をしても誰にも認められることはなかったのです。」
その言葉を聞き、レオンハルトは彼女の手へ自分の手を重ねた。
「でも私は君を選んだんだ」
ミレイユは少し驚いたあと、安心したように笑った。
「明日の結果が出れば、誰も君が王太子妃になることへ異論を唱えなくなる。百年に一人、いや神話にも残るような才能の芽を王家へ迎える。それなら、婚約を変更する理由として十分だ。あの頑固で古くさい父もそれなら納得するだろう。」
「お姉様は……納得してくださるでしょうか」
「エリシアなら理解してくれるさ。」
レオンハルトは迷わず答えた。
「彼女は感情だけで物事を判断する人間ではない。国にとって何が必要なのかを考えられる女性だ」
「でも、殿下とお姉様はずっと婚約していたのでしょう?悲しまれるとは思わないの?」
聞かれ、レオンハルトは少しだけ言葉に詰まった。幼い頃から続いてきた婚約だ。自分も彼女を嫌っているわけではなかったし、王太子妃になるため努力してきたことも知っている。
「傷つけることにはなるだろう・・・だからこそ、ただ私の気持ちが変わったという理由で婚約を解消するわけにはいかない」
レオンハルトは続けた。
「私が君を好きになったからエリシアとの婚約をやめる。それだけでは、彼女があまりにも報われないし、王家としても説明がつかない」
「だから、私を歴代最高の聖女として?」
「ああ。国の将来を考えた結果、より高い聖属性適性を持つ女性を王太子妃に選ぶ。それならエリシア自身にも落ち度はない」
自分が言葉にするほど、その考えは正しいものに思えた。誰か一人を悪者にする必要はないのだ。
エリシアは優秀だった。
ただ、ミレイユはそれ以上の才能を持っていたのだから王国のために婚約相手を変更する。
それだけの話にすればいい。
「お姉様ほど優秀なら、きっと別の幸せも見つけられますよね」
ミレイユが小さく呟く。
「ああ。彼女なら問題ない」
レオンハルトも頷いた。
「エリシアは私がいなくても困るような女性ではない。時間が経てば、今回の判断が最善だったと理解してくれるはずだ」
そう話しているうちに、馬車は劇場の近くまで来ていた。ミレイユが窓から外を覗き、少し緊張した表情になる。
「どうした?やはり今日は辞めておくか?」
ミレイユは首を横に振った。
「今日は殿下と一緒にいたいです」
馬車が劇場の前で止まり、レオンハルトは先に外へ出るとミレイユへ手を差し出した。
彼女がその手を取って馬車から降りる。周囲の客人がこちらを見ていることには気づいていたが、レオンハルトは特に気にしなかった。
明日になれば、自分たちが並んでいることに意味を疑う者はいなくなる。
「殿下?」
ミレイユが小さく声を上げた。
「どうした?」
「いえ……今、誰かに見られていたような気がして」
レオンハルトも辺りを見回したが、劇場へ向かう人々が行き交うばかりで、特に気になる人物は見当たらなかった。
「気のせいだろう。さあ行こう!開演に遅れてしまうぞ?」
ミレイユの手を取ったまま、レオンハルトは劇場へ入った。このとき、少し離れた場所にエリシアがいたことを、彼は知らなかった。
_________
観劇を終えた後、ミレイユを公爵邸へ送り届けたレオンハルトは、その足で王宮の一角にある神官区画へ向かった。
すでに日が傾き始めており、昼間は多くの神官が行き交う廊下にも人の姿は少ない。
指定された部屋の前まで来ると、レオンハルトは従者を外に残し、一人で中へ入った。
「お待ちしておりました、殿下」
ガレウス・オルティスが立ち上がり、深く頭を下げる。四十代半ばの宮廷神官で、普段は王族や高位貴族が関わる様々な儀式を担当している男だった。
「準備のほどは?」
「滞りなく進んでおります。明日の測定具はこちらで事前に調整しておきました」
ガレウスは机の上に置かれていた資料をレオンハルトへ差し出した。
「ミレイユ様が魔力を流された時点で、表示結果はSSとなります。記録用の魔道具についても同様に処理済みです」
「失敗する可能性はないのか?」
「他の神官が装置内部を分解して確認でもしない限りは問題ないでしょう。そもそも清魔の儀の最中に、そのようなことをする理由もありません」
ガレウスはそこで少し笑った。
「SSという結果が表示されれば、皆様それどころではないでしょうから」
「余計なことはするなよ。目立つほど疑われる」
「もちろん承知しております」
レオンハルトは資料へ目を通した。測定具の仕組みを完全に理解しているわけではないが、ガレウスはこの分野の専門家だ。
彼が問題ないと言うのであれば任せるしかない。
「公爵夫妻には、本当に何も知らせていないのですね?」
「ああ。明日まで何も伝えるな」
「ミレイユ様ご本人以外はお伝えはしないということですね?」
「・・・フェリクスは彼女と会っていること自体には気づいているが、儀式のことまでは知らない」
正確には、知ろうとしていないと言った方が近いかもしれない。フェリクスは命じられた仕事をこなし、必要以上には踏み込まない。
その方がレオンハルトにとっても都合がよかった。
ガレウスは頷いたものの、すぐに別の紙を取り出した。
「もう一点ございます・・・こちらをどうするか、確認しておきたく思いまして」
机の上へ二枚の記録用紙が並べられる。
片方には、二年前の日付、もう片方には明日の儀式に先立って行われた事前検査の日付が書かれていた。
レオンハルトはそこに記された文字を見る。
《エリシア・アルセイン 聖属性適性――A》
《ミレイユ・アルセイン 聖属性適性――B》
「これは?」
「原記録です。これだけは私にはどうしようもなく・・・ちなみに今現在この結果を知っているのは私と、殿下だけではあります。」
ガレウスは声を落とした。
「ミレイユ様については、明日の正式記録をSSとして作成します。ただ、この事前検査の記録が残っておりますと、万が一後になって帳簿を照合された際に問題となります」
「今後誰か見る可能性があるのか?」
「普段であればまず見ません。ですがSSともなれば、将来的に教会上層部から過去の資料提出を求められる可能性はございます」
「・・・なら処分しておけ
ガレウスはすぐに記録を重ねようとしたが、レオンハルトはエリシアの紙が混ざっていることに気づいた。
「待て。それまで処分する必要があるのか?」
「必須ではございません。ただ、今回の記録整理に合わせてアルセイン家の過去の測定資料も一部まとめておりますので」
ガレウスは紙を持ち上げる。
「ミレイユ様がSSとして登録された後、このAという数字に特別な意味はなくなるでしょう。残しておく理由がございましたら、別に保管いたしますが」
レオンハルトは二枚の記録を見た。エリシアが十五歳でAと判定された日のことは覚えている。ベルナールは誰よりも喜び、王家にも正式な報告が届いた。
当時のレオンハルトも、婚約者が高い聖属性適性を持っていることを誇らしく思っていた。
だが明日になれば、状況は変わる。
百年に一人の聖属性適正SSが現れる。
王家には、より相応しい女性がいる。そうなれば、過去の記録にこだわる意味もない。
「もう必要のない記録だ」
レオンハルトはそう答えた。
「処分して構わない」
ガレウスは二枚の紙をまとめ、机の横に置かれていた処分箱へ入れた。
レオンハルトはそれを最後まで見届けることなく席を立つ。
明日の夜会が終われば、すべて片づく。
エリシアには申し訳ないと思う。
それでも彼女なら理解できるはずだ。
エリシアは自分で自分の身を守ればいい。それでも彼女は幸せになれるだろう。
そして王国にはSSの聖女が残る。
誰もが最終的には幸せになれるのだから、多少の痛みは仕方がない。そう自分に言い聞かせながら、レオンハルトは部屋を後にした。
机の横では、ガレウスが処分箱から二枚の記録を取り出し、火の入った小さな炉へ放り込んでいた。
《ミレイユ・アルセイン――B》と記された紙から先に火が回り、続いて《エリシア・アルセイン――A》という文字も黒く焦げていく。
やがて二つの記録は、同じ灰の中へ消えていった。
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