商人の来ない集落
アルブレヒト・ヴァルケン辺境伯は、執務机に広げられた交易記録へ目を落としていた。
記録には、領内の主要街道を通過した商人の数と、積荷の種類、納入先が細かく記されている。辺境伯はそのうちの一枚を取り上げ、修道院方面へ向かう街道の記録を確認した。
「……予想よりも早いな」
そう呟くと、机の向かいに立つ男へ書類を差し出した。
「修道院へ向かう商人は、すでに一人もいなくなったのか?」
「はい。先日、主要な商会へ通達を出して以降、修道院方面への取引申請は確認されておりません」
答えたのは、辺境伯家の法務総監を務めるオスカー・ヴァイデンだった。
オスカーは受け取った書類へ目を通しながら、淡々と説明を続ける。
「正確には、商人たちが自主的に取引を見合わせております。我々が直接、修道院への物資搬入を禁止したわけではありませんので・・・」
「それで構わん。むしろ、その方が都合がよい」
アルブレヒトは椅子の背もたれへ身体を預けた。
ディートリヒ・クラウゼ率いる騎士団が壊滅したという報告を受けてから、すでに何日かが経過している。
まさか、あれほどの戦力を投入して失敗するとは思わなかった。
対魔物用の強力な火炎魔道具《焔砲》に、ダンジョンコアを封じるための《魔封じの杭》。地下にダンジョンが存在することまで見越して準備させたにもかかわらず、ディートリヒは討たれ、生き残った騎士たちは捕虜になっているという。
アルブレヒトにとって厄介なのは、単純な戦力の損失だけではなかった。
騎士団が修道院へ侵攻した事実に加え、住民の殺害やダンジョンの強奪を目的としていたことまで証言されれば、辺境伯家の立場が危うくなる。
だからこそ、二度目の直接攻撃は見送った。
「しかし、あの小娘も愚かな選択をしたものだ。大人しく領民を引き渡していれば、こちらも多少は譲歩してやれたというのに」
「エリシア・アルセイン嬢については、正式な修道院管理権限を有していることが確認されております。王家、公爵家、教会の公印が揃っている以上、管理権限そのものを否定するのは難しいかと」
「分かっておる。だからこそ、今は手を出さんのだ。・・・まったく王都のやつらは面倒な者を押し付けおって」
アルブレヒトは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
エリシアが持つ追放命令書については、ディートリヒからの最後の報告で把握している。もともと辺境へ追放された令嬢が自由に行動できないよう、修道院の管理者という立場を与えたものだったはずだ。
ところが、あの小娘はその書面を利用して避難民を雇用し、正式な居住区まで作り上げてしまった。
書面の効力を認める以上、単に領民を返せと命じるだけでは通用しない。
「それで、商人たちへの通達はどうなっている?」
「修道院周辺に危険な魔物が存在する可能性が高いとして、交易組合へ注意を促しております。また、同方面へ向かう荷馬車については、魔物由来の危険物や違法な魔石の流通を防ぐ名目で、積荷の検査を強化しました」
「通行を禁止しているわけではないのだな?」
「もちろんです。必要な検査を受ければ通行できます。ただし、検査に要する日数や費用については、商人側に負担していただくことになっているので・・・わざわざ金をかけて人の少ない集落に行こうとするものはいないでしょう」
オスカーの説明に、アルブレヒトは満足げに頷いた。
商人にとって、取引先へ商品を届けるまでの時間は重要だ。積荷の検査に数日もかかれば、それだけで利益は減る。
さらに、修道院では魔物が人間と共に暮らしているという噂まで広げている。
危険な場所へわざわざ赴き、面倒な検問を受けてまで取引する商人など、そう多くはないだろう。
「領内の主要商会には、こちらの意向を十分に伝えてあるな?」
「はい。特に、塩や鉄、布地を扱う商会については、今後の取引許可や領内の商業施設利用にも関係することを説明しております」
「結構だ」
アルブレヒトは再び交易記録へ目を落とした。
領内で商売を続けたい商人であれば、辺境伯家との関係を悪化させるような真似はしない。
しかも、今回の対象は辺境の荒れ果てた修道院に過ぎない。
正式な町でも村でもなく、住民もわずか二十七名。そこに住む者たちが買い付ける物資など、大商会から見れば取るに足らない量だ。
小さな取引のために辺境伯家を敵に回す商人はいないはずだった。
「ところで、修道院の食料事情についてはどう考えている?」
アルブレヒトが尋ねると、オスカーは別の書類を取り出した。
「以前の村から持ち出した食料は、すでに大部分を消費していると考えられます。ただし、修道院周辺では何らかの方法で食料を確保しているようです。狩猟によるものか、地下のダンジョンによるものか、詳細は不明ですが」
「ダンジョンがある以上、多少の食料は手に入るだろうな」
アルブレヒトも、その可能性は考えていた。
ダンジョンには魔物が生息し、中には食用に適した個体も存在する。うまく利用すれば、ある程度の食料を確保することは可能だろう。
しかし、食べ物だけで冬を越せるわけではない。
「塩がなければ肉の保存にも困る。鉄がなければ道具は修理できず、布がなければ防寒着も作れん。重い雪によって壊れた家屋の修繕には木材も釘も必要だ。二十七人しかおらん集落で、それらをすべて自給するなど不可能だろう」
「おっしゃる通りです。特に、冬場は街道の通行が難しくなります。今のうちに物資を確保できなければ、厳しい状況になるかと」
「ならば、後は放っておけばよいな」
アルブレヒトは書類を閉じた。
「こちらから兵を送る必要はない。冬が来れば、あの小娘も自分の置かれた立場を理解するだろう」
「住民たちが再び保護を求めてきた場合は、いかがいたしますか?」
「そのときは受け入れを検討してやればよい。もちろん、以前と同じ条件というわけにはいかんがな」
アルブレヒトは窓の外へ目を向けた。
眼下には、堅牢な城壁に囲まれた城塞都市が広がっている。街には商人が行き交い、倉庫には冬を越すための食料や燃料が蓄えられていた。
この都市を維持するために、どれほどの物資と労働力が必要なのか。
アルブレヒトは誰よりもよく理解しているつもりだった。だからこそ、エリシアが作り上げた小さな居住区など、長続きするはずがないと考えている。
「引き続き監視を続けろ。ただし、こちらから余計な刺激を与えるな。商人が来なければ、連中は勝手に困窮する」
「承知いたしました」
オスカーが一礼して執務室を出ていくと、アルブレヒトは再び交易記録を開いた。修道院方面への物資の流れは、確実に止まり始めている。
あとは冬が来るのを待つだけだった。
◇
「……思っていたよりも、ずっと深刻ですね」
翌朝、エリシアは修道院の倉庫で、バルトが差し出した物資管理帳簿を確認していた。
目の前には木箱や麻袋が並び、棚には住民たちが持ち寄った道具や食料が整理されている。
騎士団との戦いで一部の設備が破損したものの、住民たちが協力して修復を進めたおかげで、生活環境はずいぶん落ち着いてきていた。
しかし、帳簿に記された数字は決して楽観できるものではなかった。
「はい。特に問題なのは塩です」
バルトが棚の端に置かれた小さな木樽を開いてみせると中には白い塩が残っていたが、樽の半分もなかった。
「今の使い方なら、しばらくは持ちます。ですが、冬に備えて肉を保存しようとすると、とても足りません」
「一角兎のお肉は、これからも迷宮で手に入りますよね?」
「ええ。それは大変ありがたいことです。ただ、冬になれば狩猟へ向かう人数を減らさなければならない日もあるでしょう。今のうちに保存食を作っておきたいのですが、塩がなければ難しくなります」
エリシアは頷いた。
現在、地下第一階層では一角兎を安定して狩猟できるようになっている。肉だけでなく毛皮や角も得られるため、住民たちの生活に大きく貢献していた。
しかし、狩猟で得られた肉を長期間保存するには、それなりの準備が必要になる。
燻製や乾燥といった方法もあるが、塩があれば保存性は大きく向上する。何より、日々の食事にも欠かせない物資だった。
「注文していた塩は、いつ届く予定だったのですか?」
「本来なら五日前です。以前取引のあった商人に頼んでおいたのですが、まだ姿を見せておりません」
「何か連絡は?」
「それが、まったく……」
バルトは困ったように眉を下げてなんとも言えない表情をしている。
「鉄も不足していますね」
「はい。こちらはトーマが特に困っております。修道院の修繕で釘を大量に使いましたし、農具も傷んできています。新しい道具を作るにも、今ある鉄だけでは限界がありまして」
「なるほど……。布地についてはどうでしょう?」
「こちらも不足しています。特に子どもたちの冬服が心配です。以前の村から持ってきた服は、逃げる途中で破れてしまったものも多く、修繕するための布すら十分ではありません。一角兎の皮はあまり大きくはないので冬服を作るには向いておらず、もし作るならそれにも鉄が必要となります。」
バルトはそう言いながら、帳簿の端に書かれた小さな数字を指さした。そこには、冬に必要とされる毛布や衣服の枚数が記されている。
エリシアは数字を追いながら、思わず表情を曇らせた。
二十七名の住民の中には、子どもや高齢者もいる。彼ら全員が冬を越すためには、暖かな寝具や衣服が必要だった。まして、ここは王都から遠く離れた辺境である。
冬の寒さは厳しく、雪が積もれば外での作業も難しくなるだろう。
「……他にも不足しているものはありますか?」
「木材と燃料です。周囲に森はありますから、木そのものは手に入ります。しかし、伐採した木を運び、乾燥させ、薪や建築材へ加工するには時間がかかります。今の人数では、畑仕事や迷宮での狩猟と並行して進めるのが難しいのです」
「そうですよね……」
エリシアは帳簿を閉じかけ、もう一度開いた。
以前は、二十七人を食べさせることだけで精一杯だった。
魔狼の襲撃を退け、騎士団との戦いを生き延び、ようやく普通の生活を送れるようになってきた。
しかし、集落として暮らし続けるには、食料以外にも数多くの物資が必要になる。
それらをすべて外部の商人に頼っている限り、今回のように取引が途絶えたとき、生活そのものが立ち行かなくなってしまう。
「バルトさん。商人が来ない理由について、何か心当たりはありますか?」
「はっきりしたことは分かりません。ただ……少し気になる話を聞いております」
バルトが言いかけたところで、倉庫の扉が開いた。
「エリシア様、ちょっといい?」
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