王太子が愛した聖女は
今の王太子妃候補はミレイユであり、エリシアではない。
ー私はあいつに・・・勝ったんだー
それなのに、なぜ今になって彼女と比較されなければならないのだろうか。
◇
「申し訳ありません、レオンハルト様……」
その日の夕方、王宮の私室を訪れたミレイユは、椅子に座るなり目に涙を浮かべていた。
「私、ちゃんと練習していたんです。でも、結界に魔力を流した途端、急にうまくいかなくなって……」
「分かっている。今回の事故は君一人の責任ではない」
「でも、皆様の前であんな失敗をしてしまいました。きっと、またお姉様と比べられてしまいますわ」
レオンハルトは俯き、膝の上で両手を握り締めるミレイヤの向かいに腰を下ろす。
「君は初めての修復だったんだ。慣れていない作業で失敗することくらいあるさ」
「……本当に、そう思ってくださいますか?」
「ああ。君を責めるつもりはない。」
そう答えると、ミレイユはようやく顔を上げた。
「ありがとうございます。レオンハルト様だけは、私のことを信じてくださるんですね」
安堵したように微笑むミレイユを見て、レオンハルトは胸の内に生じた違和感を押し込めた。ミレイユの本当の適性がBランクであることは、最初から知っていた。
清魔の儀の結果を改竄する計画を認めたのも自分だし、ガレウスへ協力を求めたことも後悔していないつもりだった。
当時は、それが最善の選択だと考えていたからだ。
しかし、今日の失敗は予想を超えていた。
Bランクとはいえ、聖属性魔法を扱える、所謂”天才”であることに変わりはない。十分な訓練を積めば、王都結界の簡単な修復くらいは任せられるようになるはずだと考えていた。
だが実際には、魔力の制御に失敗し、結界をさらに損傷させてしまった。
このまま同じようなことが続けば、いつか取り返しのつかない事故につながるかもしれない。
「レオンハルト様?」
考え込んでいたレオンハルトへ、ミレイユが不安そうに呼びかけた。
「ああ、すまない。今後のことを考えていた」
「今後、ですか?」
「次の修復までに、もう少し魔力制御の訓練を増やそう。ガレウスにも相談しておく。君自身も、無理に大きな魔法を使おうとする必要はない」
「はい。私、頑張りますわ」
ミレイユの素直に頷く姿に、レオンハルトは少しだけ安心した。
彼女は決して怠けているわけではない。努力を重ねようとしているし、今日の失敗についても深く反省している。
ならば、自分が支えてやればいい。
王国のためにも、彼女を守らなければならない。
・・・それが彼女への、
そう考えたとき、レオンハルトの脳裏に古い記憶が蘇った。
◇
あれは七年前、地方視察に同行した際の出来事だった。
当時十二歳だったレオンハルトは、父王の命を受け、王国北部の領地を巡る視察団へ加わっていた。
将来の国王として各地の暮らしを知ることが目的だったが、幼い彼にとって、王宮の外へ出られる数少ない機会でもあった。
事件が起きたのは、ある貴族領の森を通過していたときだ。
道の先から突然、魔物の群れが飛び出してきたのだ。
護衛騎士たちはすぐに迎撃へ向かったものの、混乱の中で一体の魔物が馬車へ接近した。
レオンハルトは護衛の指示に従って逃げようとしたが、その際、魔物の爪が腕をかすめた。
傷そのものは浅かった。
しかし、その魔物は強い呪いを宿していた。
腕の傷口から黒い模様が広がり、瞬く間に全身へ激しい痛みが走った。
息ができない。
身体を動かそうとしても、指先すら言うことを聞かなかった。
護衛たちは魔物の討伐に追われ、すぐには彼のもとへ戻れない。同行していた神官も、負傷した騎士の治療に向かってしまっていた。
森の道端に倒れ込んだレオンハルトは、自分がこのまま死ぬのだと思った。
そんな彼のもとへ、一人の少女が駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!」
まだ幼さの残る声だった。
レオンハルトは返事をしようとしたが、喉から漏れたのは苦しげな息だけだった。
「呪い……。こんなに広がって……」
少女の震えた声から、彼女も恐怖を感じているのだと分かった。
「少し痛いかもしれません。でも、我慢してくださいね」
しかし、小さな手がレオンハルトの腕を包み込んだ。
温かな光が傷口から広がっていく。
少女は何度か魔力を流し込んでは、そのたびに傷口を確かめていた。呪いが押し戻そうとするたびに魔力を弱め、流れが落ち着くのを待ってから、また慎重に光を送り込んでくる。
「もう少し……。あと少しですから」
必死に魔法を使い続ける少女の額には、大粒の汗が浮かんでいた。
レオンハルトは何か声をかけたかったが、痛みに耐えるだけで精一杯だった。しかし、やがて黒い模様が徐々に薄れ、胸を締めつけていた苦しさが和らいでいった。
「……よかった」
少女が小さく息をついた。
「これで、もう大丈夫だと思います」
彼女はそう言って微笑んだ。
レオンハルトは顔を見ようとしたもののすでに視界はぼやけ、少女が身につけていた淡い色の外套と、自分の腕に触れていた小さな手だけしか記憶に残ってはいなかった。
「き、みは……」
次に目を覚ましたとき、彼は視察先の貴族の屋敷で寝かされていた。枕元には、アルセイン公爵家の次女であるミレイユが座っていた。
「殿下! 目が覚めたんですね!」
ミレイユは嬉しそうに身を乗り出した。
「よかった……。ずっと心配していたんです」
その声を聞いたレオンハルトは、森の中で自分を助けてくれた少女のことを思い出した。
ー・・・確か、こんな声だったー
金色の髪も、優しそうな表情も、ぼんやりと記憶に残る少女とよく似ている。
「君が……助けてくれたのか?」
そう尋ねると、ミレイユは一瞬、不思議そうな顔をしたが、すぐに嬉しそうに笑った。
「殿下が無事で、本当によかったです」
それ以来、彼にとってミレイユは命を救ってくれた少女であり、身分を気にせず危険な森の中で自分を助けようとしてくれた恩人であり、いつか必ず報いたいと願った相手になった。
もっとも、二人が正式に顔を合わせる機会は、その後しばらく訪れなかった。
王太子としての教育が本格化し、やがてミレイヤと同じアルセイン公爵家の長女エリシアとの婚約が決まったからだ。
エリシアは優秀な婚約者だった。
聖属性Aランクという高い適性を持ち、礼儀作法にも政治にも通じている。公務の準備を怠ることはなく、王族に求められる知識も積極的に学んでいた。
彼女が隣にいることに、不満を覚えたわけではない。
むしろ、王太子妃として非常にふさわしい女性だと思っていた。だが、ミレイユと再会してからは、どうしても彼女のことが気になってしまった。
幼い頃の恩人が、成長して美しい令嬢になっていたのだ。そのうえ、ミレイユはエリシアと違い、レオンハルトを王太子としてではなく、一人の男性として頼ってくれる。
そう感じることが増えていった。
もっとも、エリシアも彼を気遣わなかったわけではない。
忙しい公務の合間に休息を勧め、無理をしているときには注意してくれたこともある。体調を崩せば、自分の予定を変更してまで看病してくれた。
ただ、エリシアはいつも落ち着いていた。落ち着きすぎていた。
それに比べてミレイユは、些細なことでも嬉しそうに礼を言い、彼の判断を心から褒めてくれた。いつしかレオンハルトは、ミレイユと過ごす時間の方が心地よいと感じるようになっていた。
だからこそ、ミレイユの適性がBランクだと判明したとき、彼はその結果を受け入れられなかった。
彼女は自分の命を救ってくれた恩人なのだ。
その力が、ただのBランクであるはずがない。
そう考えてしまったのだ。
結局、ガレウスの協力を得て結果をSSランクへ改竄し、ミレイユを百年に一人の聖女として発表した。
もちろん、それが正しくない行為であることは理解していた。
しかし、聖属性SSランクの聖女を王太子妃に迎えることには、国家的な価値がある。そう説明すれば、エリシアとの婚約を破棄する理由にもなる。
自分がミレイユを選びたいという気持ちを、王国のための判断として正当化できる。
レオンハルトはそう考えたのだった。
◇
「レオンハルト様、お疲れではありませんか?」
いつの間にか、窓の外には夕闇が広がっていた。
「少し昔のことを思い出していた」
「昔のこと、ですか?」
「ああ。君が私を助けてくれたときのことだ」
そう言うと、ミレイユの表情がわずかに変わった。
「……あのときのことを?」
「君のおかげで、私は今も生きている。あの日のことは忘れていないよ」
レオンハルトは穏やかに微笑んだ。
「だから、今度は私が君を支える番だ。今日の失敗で君を見捨てるようなことはしない」
「レオンハルト様……」
ミレイユは目に涙を浮かべ、彼の手を握った。
「私、とても嬉しいです。これからも、ずっとおそばにいさせてください」
「ああ。もちろんだ」
彼女の手を握り返しながら、レオンハルトは改めて決意した。今回の事故は、あくまで一時的な失敗に過ぎない。
ミレイユの努力を支え、ガレウスの協力を得ながら訓練を続けさせれば、いずれ貴族たちの疑念も薄れていくだろう。
そのためにも、まずは今回の事故を確実に収拾しなければならない。
「今日はゆっくり休んでくれ。明日からのことは、私とガレウスで考える」
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