王太子が愛した聖女
王都グランツを囲む城壁のさらに上空には、数百年にわたって王都を守り続けてきた巨大な結界が存在する。
普段、その姿を目にすることはできない。しかし、ひとたび魔物が王都へ接近した際には外敵を阻む光の壁となり、強力な魔法が撃ち込まれれば、その衝撃を受け止める最後の防衛線となる。王国にとって、決して失うことのできない重要な設備だった。
そして、その王都結界の定期修復が、本日行われようとしていた。
「ミレイユ、準備はできているか?」
王宮の北側に設けられた結界管理棟。その中央にある大広間で、レオンハルト・グランツは新たな婚約者となったミレイユへ声をかけた。
「はい、レオンハルト様。いつでも始められますわ」
純白の聖女服に身を包んだミレイユが、柔らかな笑みを浮かべて答える。
彼女の前には、王都結界の魔力を制御する巨大な魔法陣が刻まれていた。床から天井まで伸びる十二本の魔導柱には淡い金色の光が流れ、それぞれが王都各所に存在する結界の基点と接続されている。
今回の修復対象は、そのうちの一つだった。
「本日の作業は北東区画の第七結節の修復です。魔力の循環に若干の乱れが確認されていますが、損傷そのものは軽微。通常の修復術式で十分に対応できます」
宮廷神官ガレウス・オルティスが、用意した書類を確認しながら説明する。
結界は長い年月をかけて少しずつ魔力を消耗するため、定期的に修復しなければならない。とはいえ、すべての結界を一から張り直す必要はなく、傷んだ部分へ聖属性魔力を流し込み、既存の術式と接続するだけでよい。
聖属性適性がBランク以上あれば、さほど苦労する作業ではなかった。
実際、以前この役割を担っていたエリシア・アルセインは、何度も同様の修復を成功させている。
もっとも、聖属性SSランクという歴史的な適性を持つミレイユにとっては、なおさら簡単な仕事のはずだった。
「殿下。本日は多くの方々が見学にいらしております。そろそろ始めていただいてもよろしいかと」
ガレウスに促され、レオンハルトは広間の後方へ視線を向けた。
そこには王国の有力貴族たちが集まっている。アルセイン公爵家当主ベルナールをはじめ、王都防衛を担当する貴族や、結界の維持費を管理する財務官まで顔を揃えていた。
本来、結界修復にこれほど大勢が立ち会う必要はない。
しかし、百年に一人の聖女による初めての王都の結界修復となれば話は別だ。
ミレイユの実力を広く知らしめる絶好の機会であり、彼女を次期王妃に迎える判断が正しかったと示すことにもつながる。
レオンハルト自身、今回の修復には大きな期待を寄せていた。
「では、始めよう。ミレイユ、君の力を皆に見せてやってくれ」
「はい!」
ミレイユは嬉しそうに頷き、魔法陣の中央へ進んだ。
ガレウスが補助術式を起動すると、床に刻まれた魔法陣がゆっくりと輝き始める。
「最初に第七結節へ魔力を接続してください。その後、流入量を一定に保ちながら損傷部分を修復します。既存の魔力と波長が一致しましたら、術式が自動的に結合を始めます」
「分かっていますわ」
ミレイユが両手を前にかざした。
「《聖光修復》!」
彼女の手から淡い金色の光が放たれ、魔法陣を通じて魔導柱へと流れ込んでいく。
広間のあちこちから感嘆の声が上がった。
「おお、見事な聖属性魔力だ」
「これがSSランクの聖女様の力ですか!」
レオンハルトは満足げに頷いた。
魔法の発動そのものは問題ない。ミレイユの適性が本当はBランクであっても、聖属性魔法を使えないわけではないのだ。
だが、魔導柱へ到達した光は、そこで勢いを失い始めた。
「……あら?」
ミレイユが小さく首を傾げる。
本来なら、魔導柱から第七結節へ魔力が流れ込み、損傷した術式が徐々に修復されていくはずだった。 ところが、結界側の魔力がミレイユの魔力を押し戻してしまっている。
修復に必要な魔力を流し込むだけならBランクでも不可能ではない。しかし、王都結界ほど大規模な術式では、流入する魔力を緻密に制御しなければ結界を構成する膨大な魔力が逆流してしまうのだ。
ミレイユには、その制御が難しかった。
・・・つまるところ、努力不足だったのだ。
「ミレイユ様、少し出力を上げて貰うことは可能でしょうか?」
「え、ええ……!」
ガレウスの指示に従い、ミレイユはさらに魔力を注ぎ込み、魔導柱の光が強くなる。だが、結界の魔力と接続しかけたところで、再び魔力の奔流に押し戻されてしまう。
「どうして……?」
ミレイユの額に汗が浮かび後方に集まった貴族たちの間でも、少しずつざわめきが広がり始めていた。
「なかなか修復が始まりませんな」
「最初の魔力接続に時間がかかっているようですが……」
「エリシア嬢が担当していた頃は、もっとあっさり終わったように記憶しておりましたが・・・」
その言葉が耳に入り、レオンハルトは眉を寄せた。
確かにエリシアは、この修復作業を難なくこなしていた。
だが、それは何年も経験を積んでいたからだ。ミレイユは今回が初めての修復であり、多少手間取るのも仕方がない。
「焦る必要はない、ミレイユ。落ち着いてやればいい」
「は、はい。レオンハルト様……!」
ミレイユは大きく息を吸い、再び魔力を集中させた。
その直後・・・
魔導柱から、不快な金属音に似た響きが広がった。
「……何だ?」
レオンハルトが顔を上げるとそれまで一定の間隔で明滅していた魔導柱の光が、不規則に揺れていた。魔法陣に刻まれた文字の一部が赤く変色し、広間の中央から床を伝って細かな振動が広がっていく。
「ミレイユ様! 魔力を弱めてください!」
「で、でも! まだ修復がー!」
「今は接続を切るのです! このままでは――」
ガレウスの警告が終わるより早く、魔導柱から激しい光が噴き上がった。
「きゃああっ!」
広間全体が大きく揺れ、天井近くに取り付けられた魔導灯が次々と破裂した。
同時に、窓の外で異変が起こる。
普段は目に見えない王都結界の一部が、巨大な金色の壁となって浮かび上がったのだ。
・・・そしてその表面を、赤黒い亀裂が走っていた。
「結界が……!」
誰かが叫ぶよりも早く亀裂は北東区画の上空を蛇のように広がり、周囲の魔力を巻き込みながら拡大していく。
レオンハルトは一瞬、目の前の光景を理解できなかった。
今回の修復対象は軽微な損傷だったはずだ。それが今や、王都の防衛そのものを脅かす異常へと変わっている。
「ガレウス!」
「分かっております! 補助術式を切り替えます!」
ガレウスが魔法陣の外周へ駆け寄り、予備の魔力供給装置を起動した。しかし、すでに第七結節には不安定な魔力が流れ込み続けている。
「ミレイユ様! そこから離れてください!」
「で、でも、私が止めたら結界が……!」
「今の魔力が流れ続ける方が危険です!」
ガレウスの怒声を聞き、ミレイユが慌てて両手を下ろした。
魔力の供給が途切れたことで、魔導柱の暴走はわずかに収まったものの、結界そのものの異常は消えない。
レオンハルトはすぐに広間の警備責任者を呼び寄せた。
「北東区画の警備隊へ伝令を送れ。住民を結界の基点から遠ざけ、落下物による被害がないか確認させるんだ。それから、宮廷魔導師団にも応援を要請しろ!」
「はっ!」
「ガレウス、復旧にはどれぐらいの時間がかかる?」
「複数人による修復術式へ切り替えれば、応急処置は可能です。ただし、準備に時間が……」
「必要な物を言え。すぐに用意させる!」
レオンハルトは近くにいた従者へ指示を飛ばし、三人がかりで不安定な魔力を押さえ込み、さらに二人が損傷部分への接続を試みることでようやく結界の亀裂が広がる速度を鈍らせることに成功した。
それからしばらくして、増援として到着した宮廷魔導師たちも修復に加わり、大勢の術者が魔力を注ぎ込むことで王都上空に浮かび上がっていた赤黒い亀裂が、少しずつ閉じ始めた。
「北東区画の魔力循環が安定してきました!」
報告を聞いたレオンハルトは、ようやく肩の力を抜いた。
ー大事には至らなかったー
少なくとも、王都の防衛機能が完全に失われる事態だけは避けられたのだ。
しかし、その場にいた誰もが理解していた。
たった一つの結節を修復するために、宮廷神官と魔導師が十数名も動員され、大量の予備魔石が消費された。
本来なら一人で終えられる作業だったにもかかわらず、である。
そして何より、修復作業の失敗から応急処置までの一部始終を、王国の有力貴族たちが目撃していた。
◇
「殿下。先ほどの件について、ご説明いただけますかな」
結界の応急処置が完了した後、レオンハルトは管理棟に隣接する会議室で貴族たちと向き合っていた。
発言したのは、王都の防衛設備を長年監督してきたヘルマン・リーデル伯爵だった。
年配の伯爵は決して声を荒らげてはいない。しかし、その表情は険しく、手元には結界修復の記録書が置かれている。
「もちろん説明する。今回の事故は、長年使用されてきた結界術式に予期せぬ不具合が発生したことが原因だ。ミレイユは正常な手順で修復を行っていたが、結界側の魔力循環が乱れたため、接続に失敗した」
レオンハルトはガレウスとも事前に確認し、用意していた説明を述べた。
完全な嘘ではない。実際に結界の魔力循環は乱れていたし、修復中に異常が発生したのも事実だった。 ただし、その異常を引き起こしたのがミレイユの魔力制御の失敗だったことには触れていない。
「なるほど。古い術式だった故の問題ということですな」
「ああ。結界の老朽化については以前から報告が上がっていた。今回の事故を機に、全体の点検を進めるつもりだ」
「それは結構なことです。しかし、少々気になる点がございます」
リーデル伯爵は手元の書類を一枚めくった。
「王都大結界は昨年も修復されていますね。その際、作業を担当したのはエリシア・アルセイン嬢でした」
会議室にいたベルナールが顔を上げた。
「娘が担当していたのは確かだが、それがどうしたというのだ?」
「記録によれば、昨年の修復作業は開始から終了まで問題なく進行しています。使用した予備魔石は零。補助術者も必要としておりません」
「エリシアは長年、結界修復の訓練を受けていた。ミレイユとは経験が違うのだ。」
ベルナールが当然のように答える。
「ええ、経験の差はあるでしょう。しかし、エリシア嬢の聖属性適性はAランクだったはずです。対してミレイユ嬢は、百年に一人とも称されるSSランクの聖女でいらっしゃる」
レオンハルトはその続きを予期したかのように顔を強ばらせる。
「今回の修復術式は、聖属性Bランクの術者であれば十分に扱えるものです。もちろん適性だけで技量が決まるわけではありませんが・・・あれほど大々的に公表されたSSランクの聖女様がこれほど苦戦された理由については、もう少し詳しい説明が必要ではありませんかな」
室内の貴族たちが小さく頷く様子を見てレオンハルトは内心で舌打ちした。
リーデル伯爵の指摘は、技術的に間違っていない。王都の結界修復は高度な聖属性魔法の一つだが、今回の工程に限ればBランクの適性があれば十分だった。
だからこそ、今回の修復をミレイヤに任せたのだ。
「適性が高いからといって、すべての術式を最初から完璧に扱えるわけではない。今回のことは、ミレイユが結界修復に不慣れだったことも関係しているだろう」
「では、今後も同様の事故が発生する可能性があると?」
「そのための訓練と点検だ。今回の件で課題も明らかになった。次回までには対策を講じる」
「ですが殿下」
別の貴族が口を開いた。
「そもそも、なぜミレイユ様に修復を担当させたのでしょう。以前のエリシア様は一人で問題なくこなしていた仕事です。担当の者を変更したことで、このような事故が起きたのであれば、王都の安全を預かる我々としても看過できません」
「担当者の変更は、王国の将来を考えての判断だ」
レオンハルトは声を強めた。
「ミレイユは次期王妃となる女性だ。王都結界の維持に携わることは、王国にとっても大きな意味がある。今回は残念な結果となったが、彼女の能力そのものが否定されたわけではない」
貴族たちは互いに視線を交わした。
レオンハルトの言葉に正面から反論する者はいなかったが、納得した様子も見られない。
「殿下のお考えは理解いたしました」
リーデル伯爵が静かに口を開く。
「ただし、王都結界は王家の威信を示すための設備ではありません。王都に暮らす民の命を守るためのものです。次回の修復に際しては、宮廷神官団だけではなく、結界管理官による事前検査を実施させていただきたい」
「……分かった。それについては認めよう」
「ありがとうございます。それから、今回の事故についても正式な記録を残します。損傷の発生時刻、魔力の流入量、応急修復に使用した魔石の数まで、すべてです」
レオンハルトは一瞬だけ返答に迷った。
宮廷神官団の内部記録だけなら、ガレウスの協力である程度の調整は可能だっただろう。
しかし、結界管理官による独立した記録となれば話は変わる。
それでも、ここで記録を拒否すれば、かえって疑念を深めることになる。
「当然だ。今回の事故は、王国全体で再発防止に取り組むべき問題だからな」
「ご理解いただき、感謝いたします」
リーデル伯爵は丁寧に頭を下げた。
会議はその後も続き、結界の再点検と修復担当者の見直しについて話し合われた。
最終的に、ミレイユが次回も単独で結界修復を担当するという案は見送られることになった。
レオンハルトは結界の老朽化を理由に今回の事故を収拾したものの、ミレイユに対する貴族たちの疑念までは取り除けなかった。
「公爵閣下。エリシア嬢が在任中に行った修復記録を、改めて確認させていただけませんかな」
「エリシアの記録を?構わんが……あれはもう辺境へ送った娘だぞ」
「承知しております。しかし、再発防止のためにも残された記録を調べたいのです」
レオンハルトは二人の会話を聞きながら、廊下へと足を進めた。
しかし、その足取りはエリシアの名前が再び王都の公的な場で取り上げられることに、わずかな苛立ちが混ざっていた。
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