ヴァルハザード・ウルフ
「え――」
先頭にいた騎士の盾が、突然跳ね上がった。
「ぐあっ!」
何をされたのか本人にも分からなかっただろう。ヴァルハザード・ウルフはその凶悪な爪を使ってすらいない。
ただその尾で軽くなぎ払っただけだった。
ただそれだけで複数の騎士の身体が宙を舞い、後方の仲間へぶつかる。
「速――」
別の騎士が最後まで言えずに狼の尾が横へ振られる。尾が巻き起こした風圧だけで、五人ほどの騎士がまとめて壁際まで押し流された。
「うわああっ!」
「隊列を!組み直せ!」
盾を持っている騎士が六枚の盾を重ね、即席の壁を作った。
「来い!」
騎士の一人が叫ぶとヴァルハザード・ウルフは止まり、盾壁の前で右前脚を床へ置く。すると地面が僅かに震え出す。
「何だ?」
騎士たちの足元だけが柔らかくなった。
「うおっ!?」
鎧の重みに耐えられなくなった床へ、六人の脚が沈む。
「抜けない!」
そこへ冷気が流れ足元の土が一瞬で凍りつく。
「……は?」
弄ぶようにヴァルハザード・ウルフが前脚を軽く振ると盾壁ごと六人が横倒しになるとディートリヒの顔から、完全に笑みが消えた。
「何をしている!たかが魔物一匹だ! 囲め!」
その言葉の通りに二人の騎士が左右へ回り、ヴァルハザード・ウルフの死角を取ろうとする。
「今だ!」
同時に踏み込むがその瞬間にヴァルハザードウルフの身体を薄い水の膜が覆った。
「何っ――」
槍先が触れた瞬間、表面を滑り、力の向きを逸らされた。反対側の剣には、短い雷が走る。
「がっ!」
手甲から腕へ電撃が伝わり、騎士の剣が床へ落ちた。その身体をヴァルハザード・ウルフが鼻先で押す。ただそれだけで、人間一人が数メートル転がった。
『生存反応あり。念のためエリシアの方針を反映しています』
ノアが答える。
『明確に殺害しなくても無力化可能と判断しました』
ヴァルハザード・ウルフは強すぎたのだ。精強な騎士達を加減して相手できるほどに。
「焔砲!」
ディートリヒが叫ぶ。
「焔砲を使え!」
砲手が動くが先ほどの一射を見ていた騎士は震えていた。
「無理です! あれは炎を――」
「いいから撃て!」
「団長!」
「撃てと言っている!」
砲口に火が集まるがヴァルハザード・ウルフは逃げない。
むしろ正面から焔砲を興味深げに見ている。
「発射!」
巨大な火球が今度は狼の巨大な身体へ直撃する。
ディートリヒの口元へ笑みが戻りかけたその時、炎の中から、黒い影が歩いて出てきた。
「……な、何?」
火が毛先へ触れているが燃えていない。むしろ周囲の炎が、ヴァルハザード・ウルフの背中へ吸い寄せられていく。
赤い光が毛並みの一部へ溶け込む。
『火属性吸収効率、良好です』
「ば、馬鹿な……」
狼が口を開くと溜め込んだ炎が牙の間へ集まる。
「伏せ――!」
細く絞られた炎が焔砲だけを正確に撃ち抜いた。魔道具が赤熱し内部の魔法石が砕け、筒が真っ二つに割れた。
「焔砲が……」
「壊された……?」
騎士たちの中から、武器が落ちる音がした。
一人、また一人と騎士達が膝をつく。
「お前ら!」
ディートリヒが怒鳴った。
「反逆罪だぞ!?お、おい、聞こえなかったか! 家族まで――」
「もういいでしょう!」
魔力感知をしていた一人の騎士が叫び返した。
「あれは、ただの魔物一匹なんかじゃない!」
彼はヴァルハザード・ウルフを見た。近くで感じれば感じるほど、理解できない。
「こいつ一体の魔力が、迷宮そのものと同じくらいあるんです! こんなもの相手に、三十人で何をしろって言うんですか!」
「臆病者が!」
「なら団長がやってください!」
広間が静まり、ディートリヒの顔が引きつった。
「……何だと?」
「もう従えません!」
「貴様!」
ディートリヒが斬りかかろうとするが、その間へ巨大な前脚が落ち、石床が砕ける。
「っ!」
あと半歩踏み込んでいれば、腕ごと押し潰されていた位置だ。ヴァルハザード・ウルフが低く唸るとディートリヒが一歩下がった。
初めて。
ここまで来て、初めて彼が自分から後退した。
「……魔物風情が」
声は掠れている。
「俺が誰だか分かっているのか」
『理解していないと思います』
「ノア……」
『狼ですので』
こんな状況なのに、エリシアは少しだけ笑いそうになった。
ディートリヒの額へ汗が浮かぶ。
「俺はヴァルケン辺境騎士団長だ!」
ヴァルハザード・ウルフが首を傾げながら前脚を振り上げる。
「グル?」
『やはり理解していませんね』
「ふざけるな!俺は、こんなところで終わる男ではない!」
ディートリヒはギリギリのところで振り下ろされた前脚を避け、踏み込む。
「はああっ!」
剣が狼の首へ向かう。
そして、毛並みの直前で止まった。
「……な」
身体に浮かぶは透明な氷の膜。剣先が食い込んだまま、動かない。
「馬鹿な!」
ヴァルハザード・ウルフが頭を振ると角の側面がディートリヒの剣へ当たった。金属が折れる嫌な音が大広間に静かに響く。
「……なっ!俺の剣が」
長年使ってきた剣の上半分が床へ落ちた。
「くそっ!」
折れた剣を捨て、懐へ手を入れる。
「なら!魔封じの杭でコアを操れば!」
エリシアの意識が一気に戻る。
「駄目です!」
ディートリヒが大広間の奥のコアがあると思っている方向に走り出す。狙いはヴァルハザード・ウルフではない。
「こいつを打ち込めば終わりだ!」
エリシアの叫びに反応してヴァルハザード・ウルフが動く。
「来るな!ぐっ!」
杭を持った腕が宙へ飛んで床を転がる。ヴァルハザード・ウルフの豪腕が、そのすぐ横を通ると魔封じの杭が石床ごと砕ける。
「……あ」
ディートリヒが呆然とする。
これまで頼っていた切り札が、たった一度踏まれただけで壊れた。
「そんな……」
『魔封じの杭、破壊を確認』
「……俺は」
ディートリヒの口が動く。
「俺は騎士団長だぞ・・・辺境伯閣下に任されたんだ」
騎士たちはもう武器を置いている。
「お前ら、拾え・・・剣を拾え!お、おい!反逆者どもが!」
ディートリヒの目が血走り声を張り上げる。
「全員処刑してやる!」
腰の短剣を抜き、床に武器を置いた騎士へ向かう。
「団長!」
「裏切り者から殺す!」
踏み出したところで、風が爆発した。
「うおっ!」
身体が持ち上がり、背中から石床へ叩きつけられた。
「ぐ……っ!」
ディートリヒが必死に身体を捻るが異常に強い力で押さえつけられてまったく動けない。
「離せ……!」
狼の爪が石床へ食い込む。
「離せと言っている!」
エリシアは床へ手をつきながら、なんとか身体を起こした。
「ディートリヒ……」
男がこちらを見る。
「……まだ生きていたか」
「もう……終わりです」
「あなたの部下は、もう戦う意思を失っています。武器を捨ててください」
エリシアは息を整えながら言った。
「これで、本当に最後です」
ディートリヒが笑う。
「俺に降伏しろと?」
ディートリヒの顔が歪んだ。
「お前みたいな捨てられた女に……」
エリシアの目が僅かに細くなる。
「王太子に捨てられ、公爵家に追い出され、こんな辺境で魔物と暮らしている女に!俺が屈することはない!」
ディートリヒは強靱な前脚に押さえられながらも胸当ての下へ手を入れ、最後の短刀を抜く。
「団長、やめろ!」
騎士の一人が叫ぶが、それに構わずディートリヒは短刀を投げた。
狙ったのは・・・広間の側面、隠れていた通路から様子を見に出てきたリナ。
「リナ!逃げー」
エリシアが言い切るよりもヴァルハザード・ウルフの瞳が光った。雷が走り、空中の短刀へ直撃する。
金属が弾け、床へ落ちた。低い唸り声が広間を震わせる。
先ほどまでとは違う明確な敵意だった。
「……あ」
ディートリヒもやっと理解した。ヴァルハザード・ウルフがこれまで騎士たちを殺さなかったのは、殺せなかったからではない。
ただ、気まぐれで殺さなかっただけなのだと。
巨大な狼が口を開き、その奥へ複数の色の光が集まっていく。
「ま、待て」
ディートリヒの顔から血の気が引く。
「おい」
狼は止まらない。
「俺は騎士団長だぞ!辺境伯が黙っていない!」
「待て! やめろ!」
エリシアは目を閉じなかった。
「ヴァルハザードウルフ」
巨大な耳が主の言葉を聞き漏らさぬように動く。
エリシアは小さく息を吸った。
「お願いします」
狼の口から、凝縮された魔力が放たれた。
轟音と眩い光が広間全体を揺らす。
「――!」
叫び声すら長くは続かなかった。
光が消え、ヴァルハザード・ウルフはゆっくり顔を上げる。
『敵性反応――一名、消失』
ノアの声が無情に響く。
『残存騎士、二十七名。全員戦闘継続能力なし、または降伏状態』
広間には、ヴァルハザード・ウルフの呼吸だけが聞こえていた。
「……終わった?」
身体の力が抜ける。今度こそ倒れそうになったところを、サンクチュアリフェアリーが頬を叩いた。
「痛いです……」
『寝るのはまだ待ってください』
奥の隠し通路から足音が聞こえる。
「エリシアさん!」
「無事か!」
「エリシアさん!」
「マルタさん、先にエリシアさんを!」
「言われなくても分かってますよ!」
マルタが真っ先に駆け寄る。
「あなたという人は……!」
マルタがエリシアの状態を確認している間、リナたちは降伏した騎士たちへ向かった。
「武器を全部こちらへ!抵抗しないでください」
先ほどディートリヒへ逆らった騎士が自分から両手を差し出す。
「縛ってくれ」
トーマが縄を持って近づく。
「悪いな。大人しくしてくれれば悪いようにはしない」
騎士は首を振る。
「そちらが謝ることじゃない」
住民たちは一人ずつ騎士の武器を回収し、両手を縛っていく。怪我をしている者は別に座らせ、マルタが後で診ることになった。
リナは最後まで広間に残り、ディートリヒが倒れた場所を見ていた。
「ずっと、この人が憎かったんです」
城門の前で助けを求めた自分たちを追い払った男。
「死んだからって、許せるわけじゃありません」
誰に返事を求めるでもなく、リナは言った。
「バルトさん。縛るの手伝います」
過去より、今やるべきことの方へ歩いていくその背中は少しだけ、いつもより軽やかに見えた。
『エリシア、まだ終わっていません。重要な作業があります』
「えっ?まだ何かありましたか?
『はい。私のヴァルハザード・ウルフを褒めてください』
「……はい?」
巨大な狼が、すぐ近くに座っていた。先ほどまで三十人近い騎士を一方的に倒した怪物が、今は尻尾を床へつけたままエリシアを見ている。
「もしかして、褒められるのを待っています?」
『当然です! あれだけ活躍したのですから!私の自慢のボスですからね!』
「そうですね」
エリシアは身体を支えてもらいながら、ゆっくりヴァルハザード・ウルフへ手を伸ばした。巨大な頭が下がり、額へ手が触れる。
「ありがとう」
毛は以前と同じように柔らかかった。
「助けてくれて、本当にありがとう」
ヴァルハザード・ウルフが目を細めて尾が一度だけ大きく床を叩いた。
「結構嬉しそうですね」
『当然です!』
その返事に、今度は周囲の住民たちからも笑いが起きた。
「勝ったんだよな?」
誰かが言った。
「……勝ったんだ」
別の誰かが答えその言葉が少しずつ広がった。
「勝ったぞ!」
「生きてる!」
トーマが拳を上げる。
「みんな無事だ!」
歓声が第十階層へ響いた。
ニナたち子どもはまだ安全な部屋から出していないし、修道院の地上部分は火で焼かれ、畑や作業小屋にも被害が出ているだろう。
やることはいくらでも残っている。
それでも今だけは、誰もそれを口にしなかった。バルトが隣の男と肩を叩き合い、ユアンはその場へ座り込んで泣き笑いしている。
レッドキャップたちは何を祝っているのか分からないまま住民たちの真似をして腕を上げ、スライムまで身体を何度も跳ねさせていた。
エリシアはその光景をぼんやり眺めながら、ヴァルハザード・ウルフの毛へ額を預けた。
「ノア」
『はい』
「終わりましたね」
『はい』
「今度こそ、少し寝てもいいですか?」
『当然です』
「良かった……」
『ただし』
「まだ何か?」
『目を覚ましたら説教です。後、ご褒美も下さい』
「……忘れてくれませんか?」
『絶対に忘れません』
エリシアは小さく笑い、そのまま身体から力を抜いた。自分たちの場所を守りきった歓声を聞きながら、エリシアは安心して目を閉じた。
もし少しでも
「続きが気になる!」
「面白かった!」
と思っていただけたら、
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それではまた次回!




