私たちはもどりません!
ディートリヒたちが修道院へ到着する数日前、城塞都市の領主館では、古い一冊の記録が机の上に広げられていた。
「・・・これが例の修道院か」
アルブレヒト・ヴァルケンは、黄ばんだ紙面へ目を落としたまま尋ねると向かいに立つディートリヒが頷く。
「間違いありません。今はほとんど使われていない旧修道院です。例の・・・王都から新しい管理人が送られたという報告は入っていましたが、辺境伯家へ直接関係する施設でもありませんし、何よりこの土地は一種の治外法権でしたので、これまでは放置していました」
「放置したのは、価値がないと思っていたからだ。しかし・・・」
アルブレヒトは訂正するように言い、古い記録の一ヶ所を指先で叩いた。
そこには、数十年前に修道院が事実上放棄されるまでの経緯が記されていた。始まりは、周辺に生息していなかった魔物の出現だった。
最初は一、二体。しかしやがて数が増え、ある時期には十数体の魔物が一度に修道院付近へ現れた。周辺の森を調べても大規模な巣は見つからず、街道から移動してきた痕跡もない。討伐しても暫くすると別種の魔物が現れ、その出所は最後まで特定されなかった。
「当時の騎士団は地下を疑っているな」
「ええ。修道院の地下礼拝堂付近で魔力濃度の異常も確認されています。しかし、床の一部が崩れ、地下区画へ降りることが難しくなったところで調査は打ち切られています。魔物も徐々に姿を消したため、休眠した小型ダンジョンではないか、という推測だけが記録に残りました」
アルブレヒトは鼻を鳴らした。
「・・・ダンジョンがあるという推測は立てたというのに、誰も調べなかったと」
「当時の記録を見る限り、採算が取れないと判断されたようです。魔物が出なくなった以上、高い金を払って崩落した地下を掘る理由がありませんから」
「その判断自体は間違っていないが...」
領主にとって、利益の見込めない廃墟へ金をかける理由などない。それが数十年間、旧修道院が忘れられていた理由だった。
だが、状況が変わった。
「魔狼に追われた村人が、あの修道院へ逃げ込み、そして全員が生き残った。キングウルフを含む巨大な魔狼の群れが襲ったにもかかわらず、だ」
ディートリヒは少し眉を寄せた。
「そこはまだ裏が取れていません。避難民が大げさに話している可能性もあります」
「さらに魔物らしきものが修道院内を歩いている、と」
アルブレヒトは記録を閉じた。
「何十年も前に魔物が理由もなく湧いた場所へ、今になってまた魔物が集まり、住み着いた人間だけが都合よく生き延びている。偶然だと思うか?」
「……地下の何かが再稼働した、と?」
「ダンジョンである可能性は高い」
アルブレヒトは椅子へ深く座り直した。
「もしコアまで残っているなら、話が変わる」
ディートリヒの目にも理解の色が浮かぶ。ダンジョンコアそのものは市場へ流せる類の品ではないが、管理可能なダンジョンには価値がある。
魔石、魔物素材、鉱物、地下資源。場所によっては、ただ一つの迷宮から小さな鉱山以上の利益が生まれるのだ。
「なるほど、住民二十七名の件を理由に調査する、ということですか?確かにそれなら教会の土地も調べることができますね」
「もちろん、連れ戻せるなら連れ戻せ。二十七人分の労働力を失う必要もない」
アルブレヒトはそこで一度言葉を切った。
「だが、優先順位を間違えるな」
「……コアですか」
「ああ、コアがあるなら確保しろ。管理者がいるなら権限を手放させる。それが難しければ、危険なダンジョンの存在を領内治安上の問題として扱えばいい」
「修道院の管理人が抵抗した場合は?」
「ただの左遷された聖職者なら、辺境伯家の名で押せる。多少の金を握らせればどうとでもなるだろう」
アルブレヒトは机の端に置かれていた命令書をディートリヒへ滑らせた。
「それと、用意だけはしておけ」
「?何をでしょう」
ディートリヒが命令書を受け取るとその顔が驚愕に染まる。
「こ、これは魔封じの杭と火炎魔道具を?」
「必要なら使え。古い迷宮だからと侮るなよ」
「承知いたしました!」
ディートリヒは一礼して部屋を出ていった。残されたアルブレヒトは、閉じた古い記録へもう一度目を落とす。
かつて利益にならないと捨てられた場所が、今になって価値を持った。
かつて先代が金に困ったときに教会に売り払った土地とはいえ価値あるものが自分の領内にある以上、それを他人へ渡す理由はない。
◇ ◇ ◇
「でしたら、なおさら確認しましょう。あなた方が従う秩序と、私に与えられた権限の、どちらがこの場所で優先されるのかを」
エリシアの言葉を聞いても、ディートリヒはすぐには答えなかった。修道院の門前では、三十名ほどの騎士が騎乗したまま待機している。
その前に立つ住民たちも、誰一人として動こうとはしない。
「……いいだろう」
ディートリヒが先に折れた。
「その書面を見せてもらう」
「少々お待ちください。部屋から持って参ります」
「逃げるなよ」
リナの表情が険しくなった。エリシアはそちらを制するように小さく手を動かしてから、ディートリヒへ向き直る。
「すぐに戻って参ります。バルトさん、少しお願いしても?」
「もちろんです」
「勝手に門を開けなくて構いません。こちらから騎士団へ危害も加えないでください」
「分かりました」
騎士たちに背を向けることへ不安がないわけではないが、今ここで必要なのは追放されたとき、父ベルナールが自分を縛るために渡した書面。
自分を王都へ戻らせず、荒れた修道院へ押し込めるための命令書。
その書面が、今度はこの場所を守る。
自室へ入り、机の引き出しから封筒を取り出すと三つの公印を確認してから胸元へ抱え、再び門前へ戻った。
「こちらです」
ディートリヒへ書面を渡す前に、エリシアは封を開き、自分で内容を広げた。
「何をしている?」
「皆さんにも聞いていただきます」
「・・・俺が読めば十分だ」
エリシアはその言葉を無視してそのまま書面へ目を落とした。
「第一に、辺境修道院および付属地の維持、修繕、耕作に関する管理権は、管理人である私へ一任されています」
ディートリヒが不愉快そうな顔をする。
「そして管理に必要な人員を雇用し、その家族を付属地へ居住させることを認める、と明記されています」
バルトたちの間で、小さく息を吐く音がした。
「その連中全員が必要だと?子どもまでいるようだが?まさか劣悪な環境でいたいけな子どもをはたらかせているのではあるまいな?」
「子どもは雇ってはいません。その両親や家族が修道院の管理に携わり、その家族として暮らしています」
「都合のいい解釈だな」
「書面に書かれている通りですが・・・」
エリシアは続ける。
「被災者および旅人の一時保護についても、管理人の裁量が認められています。皆さんを最初に受け入れた時点でも、私の権限を越えていません。その後、希望した方々と雇用関係を結びました」
ディートリヒの顎が僅かに動いた。
「領主の許可なく?か?辺境の村で勝手に人がいなくなれば困るのだ!」
「まさか辺境伯が困るから、村人の職を強制させていたのですか?それは王国法第十一条、全ての王国の民は職業選択の自由を持つ。に違反していませんか?たしか王国法には
一、すべての民は、その身分、出生、家柄その他いかなる理由による差別を受けることなく、自らの意思に基づき、自由に職業を選択し、これに従事する権利を有する。
二、貴族その他これに準ずる権力及び権限を有する者は、前項に定める権利を侵害してはならず、すべての民がその権利を行使できるよう、これを保障する義務を負う。
三、何人も、正当な法的根拠なく、他者の職業選択を妨げ、特定の職業への従事を強制し、又はその権利を不当に制限してはならない。
とあったはずです。王国の民の職業選択の自由は他ならぬ、辺境伯様の手によって保障されなくてはならないのでは?」
ディートリヒの顔から、少しずつ余裕が消えていく。
「だから何だ!その古法はかつてダンジョンが乱立していた時代に冒険者を大量に雇用するための悪法ではないか!彼らはヴァルケン辺境伯領の村民であり、その監督権は辺境伯が保持している!」
「監督権とは、民を守るという貴族の義務を全うしたときに発生する権利です。彼らはあなたたちに”見捨てられたことで”魔物に襲われ、耕す土地も戻る家も失った自由民です。その方々が別の場所で雇用を受けることを禁じる法令を、私は存じません」
「っ辺境の事情を王都の理屈で語るな!」
「辺境では領民は領主の”所有物”になるのでしょうか?」
周囲が静かになり、ディートリヒの目が細くなる。エリシアは書面を畳まず、そのまま続けた。
「この方々は、すでに私と雇用契約を結んでいます。ヴァルケン辺境伯の所有物ではありません」
「言葉を選べ、公爵令嬢。辺境伯家を侮辱していると受け取られても知らんぞ」
「私はただ、領民を全員連れ戻すと仰るのであれば、本人の意思を無視して拘束できる法的根拠を示してください、と言っているだけです。」
ディートリヒは何も答えなかった。いや、答えることができなかった。
代わりに書面へ手を伸ばす。
「貸せ」
ディートリヒは王家、公爵家、教会の印を順番に確認した。偽造だと叫び、破り捨てたい衝動に駆られたが、これを切り捨てることはできない。
むしろ、そんなことをすれば辺境伯家が取り潰されることになるだろう。
「……この書面があるから何だというんだ」
「移住の正式な手続きが必要なら行います」
エリシアは住民たちへ振り返った。
「皆さん、改めて確認させてください。みなさんはここに残り、ここで働く意志はありますか?」
バルトが真っ先に頷く。
「私は残ります」
「俺も」
トーマが続いた。
「まだ倉庫の柱も立て終わってませんしね」
「私もです」
マルタは腕を組んだまま、騎士たちを見る。
「今さら戻って何をしろというんです。焼けた村で薬草でも育てろと?」
ユアンも少し緊張した顔をしながら手を上げた。
「僕も、ここに残りたいです。おばけかぼちゃの畑はよそでは絶対作れませんからね」
他の住民たちからも次々と声が上がる。
「ここで働く」
「戻る場所なんてない」
「子どもを連れてまた街道を歩くなんて無理だ」
誰かに言わされている様子はない。騎士の数を見て怯えている者はいるが、それでも、帰りたいと言う者はいなかった。
最後に、リナがディートリヒの前へ出る。
「私たちは絶対にあなたたちのもとへは戻りません」
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