はじめての雪③
夕暮れから宵闇へと移り変わる、港町の石段。
ふと、めいと蔵は異変に気づいた。
波の音も、風の音も、一切聞こえてこないのだ。
「風の音も、波のざわめきも聞こえない。カモメの声も、市場の活気も」
「いくら日が暮れたからって、こんなに静まり返ることあるか?」
二人が港を見下ろすと、漁師が重いロープを地面に落とし、酒場のテラスでは男たちが大笑いしながらジョッキを合わせていた。
しかし、何ひとつ音が聞こえない。
「あのオヤジども、乾杯して大声で笑ってんのに、一言も声が響いてこないぞ!?」
「街全体から『音』が消えてる……」
蔵は欄干から二、三歩離れ、大声で叫んだり、手を叩いたりして確かめた。
しかし、口を大きく開けても、手を叩いても、音はまったく聞こえない。周囲は完全な無音だった。
「蔵、離れると何も聞こえないわ!」
焦った蔵は、慌ててめいのもとへ駆け戻った。そして、耳元ぎりぎりまで顔を寄せる。
「もっと寄れ! 身体が離れたら声が吸われちまうぞ!」
「ち、近い近い! 近すぎだよ、蔵!」
突然、声が聞こえるようになり、めいは顔を真っ赤にして大慌てした。
肩を寄せ合ったまま、めいは真鍮の晴雨計を見つめ、考えを口にする。
「雪の結晶に『静寂の冷気』が混ざっていたんだと思う。至近距離なら音が聞こえるのは、私たちのエプロンや上着に染み込んだ『気圧封止液(アンカー液)』が、身体の周りだけ、わずかに気の真空化を防いでいるからだわ!」
「って、蔵! 近すぎるんだけど……」
「文句言うなよ。離れたら声が聞こえなくなるんだから、我慢しろ」
めいが掲げた晴雨計の針は、北東の海側を指して小刻みに震えていた。
石畳の上には、銀色に光る微細な気流が川のように流れている。
「見て! 晴雨計の針が北東の海側を指して震えてるわ!」
「音を吸った『静寂の冷気』は、気圧が最も低い特異点へ集まる性質があるのよ! つまり、音は今、一か所に『吸引』されている!」
「待てよ。そういえば今朝、この港町の桟橋に、何者かが大量の『防音結晶塩』を運び込んでたのを見たんだ。街中の音を吸い集めて、結晶に閉じ込めて持ち去る気だ!」
「何のために? まさか、この島の祝祭の音や歌声を結晶化して売りさばく気!?」
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二人は肩を寄せ合いながら、薄暗い倉庫街の路地へと向かった。
音の粒子や、かすかに歪んだ音符のような光を伴う銀色の霧が、海に突き出た不気味な黒い木造倉庫へと吸い込まれていく。
「空気の流れが、あの塩倉庫に吸い込まれてる。あそこが『音響のブラックホール』の発生源ね!」
二人が離れると声が届かなくなる。蔵はめいの腕をぎゅっと引き寄せ、片手に工具を構えながら、重い鉄扉の前へと駆け込んだ。
「行くぞ、めい! 離れるなよ。一瞬でも隙間が空いたら、合図も出せないからな!」
こうして、二人は音を吸い込む倉庫へ突入することにした。
街の声を取り戻すため、二人の距離ゼロの潜入が始まる。
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倉庫の中には塩袋が山積みになり、湿った床板が鈍く光っていた。
その中心にいたのは、街中の声や音を吸い集め、脈動する結晶シリンダーを抱えた仮面の密売商人だった。
「な、何者だ!? なぜ無音の結界の中で、侵入者の足音が、いや、声が出せている!?」
身体が離れれば、指示も声も届かなくなる。
蔵はめいの肩を抱き寄せるように密着したまま、バールを構えた。めいも真剣な眼差しで結晶を見据える。
「アマギ屋の配達屋と店長だ! 人の街の『声』を盗んで金儲けとは、いい度胸じゃねぇか!」
「蔵、あの結晶を見て! 街の波音、祭りの歌、子どもの笑い声、全部閉じ込めて圧縮してる!」
「つまり、あの結晶をぶっ壊せば元に戻るのか?」
「壊したら音の爆縮で、街中の人の鼓膜が破れちゃう! 私の『反転触媒液』を結晶に注ぎ込んで、気圧を逆流させるしかないわ! でも、絶対に私から身体を離さないで!」
「言われなくても離さないよ。お前こそ、俺の背中から振り落とされるなよ!」
蔵は俊足を生かして一気に間合いを詰めた。
めいを密着させたまま、結晶へと突進する。
めいは試薬瓶の栓を歯で引き抜き、結晶核の隙間に狙いを定めた。
商人の抵抗を蔵が弾き飛ばし、その隙にめいが反転触媒液を結晶核へ直接注ぎ込む。
「『逆位相・気圧解放』――!!」
結晶の殻が粉々に砕け散った。
閉じ込められていた光や音符、波の波形が、一気に四方八方へと解き放たれる。
音響と光の衝撃波に吹き飛ばされた商人は、割れた塩の破片と空の真鍮ケースを残し、小舟で夜の海へと逃げていった。
「覚えてろよ、アマギ屋!」
そして、音が戻ってきた。
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夜が明け、島の港町はいつも通りの朝を迎えた。
波の音、カモメの声、人々の話し声。失われていた音が、街のあちこちに戻っている。
「おーい! おはよう!」
「声が戻ってるぞ!」
「昨夜のは何だったんだ?」
波止場では、荷車を引くめいと蔵が、いつものように歩いていた。
「やれやれ、これでやっと普通に会話ができるな」
「そうね。蔵、昨夜は『絶対に離れるな!』って、すっごく力いっぱい抱きしめてたじゃない」
「ば、馬鹿言え! あれは音を維持するためだろ!! 勘違いすんな」
そこへ、昨日雪を楽しんだ子どもたちが駆け寄ってきた。
めいは笑顔で子どもたちの頭を撫でる。
「めいお姉ちゃん、蔵お兄ちゃん! 昨日の雪、すっごく楽しかったよ! 溶けちゃったけど、また絶対降らせてね!」
「ええ、約束するわ。今度はもっときれいな、春の淡雪を届けてあげるわね」
やがて、汽笛を鳴らしながら船が出航する。
甲板に立つめいと蔵。めいは祖父のノートと晴雨計を手に、晴れ渡る海原を見つめていた。
波止場では、島の人々が二人に手を振って見送っている。
「さて、次はどの街へ天気を届けようかな」




