シルフィ、臨時店番!?②
シルフィはアマギ屋のカウンターに戻り、頬に絆創膏を貼ったまま、魂が抜けかけていた。
「庶民の相談窓口とは、戦場よりも苛烈な修羅場なのか。だが、これで午前中の平穏は守られたはず……」
水を飲みながら、ようやく一息つく。
ドバァァン!
突然、ドアが勢いよく開き、粉まみれのパン屋の男性が発酵桶を抱えて飛び込んできた。
「めいちゃーん! 助けてくれぇ!」
「ブハッ! ゲホッ、ゴホッ! な、何事だ、貴様!」
シルフィは飲んでいた水を派手に噴き出し、むせ返った。
パン屋はカウンターに木桶をドスンと置いた。その衝撃で小麦粉が舞い上がり、シルフィの顔もプラチナブロンドの髪も制服も、真っ白に染まってしまった。
「午後の特注ブリオッシュの生地が、急な北風のせいで乾燥して、発酵が止まっちまったんだ! 今すぐ室温28度、湿度75%の環境を作らねえと、今日のパンが全滅しちまう!」
「パンだと!? 酵母菌の活動に適した温度と湿度が必要なのか!」
「そうなんだよ! あと15分もすりゃ、今日の焼き上がりに間に合わなくなっちまう!」
「酵母菌の発酵に適した温度と湿度は……」
シルフィは本を広げ、さっそく小難しい説明を始めようとした。
しかし、パン屋にはそんな余裕などなかった。シルフィの両肩をつかみ、ガクガクと激しく揺さぶった。
「学問の講釈はいいから、早くしてくれ、お役人さん!」
「わ、わかっている! 揺するな! めい殿の調合レシピ『微温多湿ブレンド』はどこにあるのだ!」
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小麦粉まみれのシルフィは棚を探し回り、ついにめいの手書きノート『パン生地用・しっとり発酵レシピ』を発見した。
「見つけたぞ、めい殿の調合控え帳! パン屋よ、慌てるな! 酵母を弱らせぬよう、温度と湿度を適切に保つのだ!」
「よくわからないが、頼むぜ、お役人さん!」
シルフィは木枠とリネン布を使い、生地桶を覆うための簡易テントを組み立てた。さらに、真鍮ノズル付きの噴霧スプレーを構える。
「生地に直接風を当てれば、表面が乾燥してしまう。布で覆って水分を逃がさず、その内部に細かなミストを行き渡らせるのだ」
「おおっ! さすが頭のいいお役人さん、手際がいいじゃねえか!」
シュウゥゥ……。
シルフィは温度計と湿度計を確認しながら、慎重にミストを噴霧していく。
「室温28度、湿度75%。よし、これで環境は整った。あとは、この調合液に含まれる発酵促進成分で酵母の働きを助ける。温度を保ちながら、しばらく待つのだ」
シルフィは生地の様子を確かめながら、そっと布をかけ直した。
「起きろ、酵母菌どもよ!」
しばらくすると、生地は少しずつ膨らみ始めた。
やがて布を持ち上げると、生地はふっくらと膨らみ、元の倍ほどの大きさになっていた。
「ふ、膨らんだぁ! つやつやのモチモチだ! 生き返ったぞ、オレの特注ブリオッシュ生地が!」
「ふぅ……計算通りだ。パンの発酵が、これほど心臓に悪い任務だとは……」
シルフィは椅子にへたり込み、鼻の頭についた小麦粉を払いながら、安堵の息を漏らした。
感極まったパン屋の男性が、シルフィを力いっぱい抱きしめた。
「ありがとうよ、局長さん! これなら昼の焼き上がりに間に合うぜ! お礼に、朝イチで焼いたクロワッサンをやるよ!」
「ぐへっ! あ、あばらが……折れる……! 感謝は言葉だけで十分だ……ゲホッ!」
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その後も、シルフィは次々と押し寄せる街の人々の相談に、黒板や晴雨計、法全書などを駆使して全力で対応していった。
花屋からは店内の湿度調整、主婦からは赤ん坊のおむつの外干し相談、大道芸人からは突風の予測など、相談内容は実にさまざまだった。
そうこうしているうちに、アマギ屋の壁に掛かった古時計は、11時55分を指していた。
「お役人さん、最初は堅苦しい人だと思ったけど、本当に丁寧に対応してくれて助かりました! ありがとう!」
最後のお客さんが笑顔で礼を言い、ドアベルを鳴らして店を出ていった。
カウンターの上には、街の人たちからもらった焼き芋、パン、ベリージャム、野花の花束が山積みになっていた。
「ぜぇ……ぜぇ……。終わった……午前中の全案件、処理完了……。指一本……動かん……。庶民の生活力とは、これほどすさまじいものなのか……」
シルフィは贈り物の山を前に、カウンターに突っ伏した。魂が抜けたように、ピクリとも動かない。
こうして、若きエリート局長の過酷すぎる臨時店番は、ひとまず幕を閉じた。
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カランコロン。
北の農家への苗の保水処置を無事に終え、めいと蔵が満足そうな笑顔でアマギ屋へ戻ってきた。
「ただいま戻りました! 北の農家さんの苗、無事に潤せましたよ!」
「局長さん、ちゃんと留守番できたか?」
二人はカウンターの光景を目にした瞬間、言葉を失った。
街の人々からもらった焼き芋、パン、ベリージャム、野花の花束が山積みになっている。その向こうでは、小麦粉まみれで泥までつけ、頬に絆創膏を貼ったシルフィが机に突っ伏していた。
「シ、シルフィさん!? 一体何があったんですか!」
「げっ、マジで魂抜けてるし……!」
蔵は腹を抱えて大爆笑した。
「ギャハハハ! ほーら見ろ、言わんこっちゃない! だから泣きついても知らないぞって言ったんだよ! 休日に看板へ頭をぶつけて泣きそうになってた奴が、下町の店番なんて耐えられるわけないだろ!」
シルフィがぷるぷると震えながら、ゆっくり顔を上げた。
「き、貴様……。私生活を職場で蒸し返すなと、あれほど言ったはずだぞ!」
めいは温かい布巾を手に取り、シルフィの頬についた小麦粉を優しく拭ってあげた。
至近距離で微笑むめいの顔を見た途端、シルフィの耳まで真っ赤になった。
「シルフィさん、本当にありがとうございます! このお礼の品々を見る限り、町のみんなの相談を全部聞いてくださったんですね!」
「帝国の官吏が引き受けた任務を途中で投げ出すなど、あり得ん。午前中の全案件、完璧に完遂したのだ!」
「口だけは達者だな」
蔵が呆れたように笑った。
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めいはオーブンから出したばかりの、黄金色のベリータルトを皿に乗せ、シルフィの前に差し出した。
「シルフィさん、本当にありがとうございました! お礼に、焼きたてのベリータルトをどうぞ!」
「私は公務の責務を果たしたまでだ。 菓子などで懐柔されると思うなよ!」
シルフィは立ち上がり、人差し指を突き上げて涙目で言い放った。
「言っておくがな! 二度と店番など引き受けるものか! アマギ屋の相談窓口の過酷さは、非常事態宣言レベルだ!私だから対応できたがな!」
めいと蔵には、シルフィが強がっているのだということが、すぐにわかった。
「んじゃ、そのタルト、俺が食っていいか?」
「なっ! それとこれとは話が別だ!」
シルフィは慌ててタルトを手に取り、ガブリと一口頬張った。
「サクサクのパイ生地に、甘酸っぱいベリーの果汁が、疲れ切った体に染み渡る……。おいしい……!」
シルフィはカウンターで頬をリスのように膨らませ、タルトを食べ始めた。
めいが温かいハーブティーを注ぎ、蔵はカウンターに肘をついてニヤニヤしている。
「もぐもぐ。ご、誤解するなよ、めい殿! タルトに含まれる糖分が、疲労した脳のエネルギー補給に必要不可欠なだけで……もぐもぐ」
「はいはい、素直においしいって言えばいいじゃないか、局長さん!」
こうして、シルフィの臨時店番は、なんとか幕を閉じた。
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