特別編1:2人が出会った日
時は、ちょうど二年前。
亡くなった祖父から「気象調合処・アマギ屋」を引き継いだばかりの頃の話だ。
「はぁ、はぁっ。ま、間に合わなかった……!」
めいは木箱入りの配達ケースを抱え、肩で息をしながら店に飛び込んできた。
「また三十分も遅刻して、お叱りを受けちゃった。気象瓶の調合は、おじいちゃんの教えどおりにできたのに……。私一人じゃ、遠くのお客さんに届けるのは無理なのかな」
作業机の上には、配達帳簿が置かれていた。
そこには「遅延」「キャンセル」「受取拒否」の赤いスタンプが、いくつも押されている。
壁には、亡き祖父の写真と、愛用していた帽子が掛けられていた。
めいはランプの小さな灯りの下で、祖父の形見である調律音叉を胸に抱きしめた。
店を受け継いだものの、調合から配達まで、すべてを一人でこなすのは難しかった。調合の腕には自信がある。けれど、どれほど良い品物を作っても、遠くのお客さんに時間どおり届けられなければ、店を続けていくことはできない。
重圧と孤独に押しつぶされそうになりながら、めいは祖父の写真を見つめた。
「ごめんなさい、おじいちゃん。私、やっぱり一人じゃ天気屋さんを続けられないのかな」
そのとき、窓の外から雨音が聞こえてきた。
ポツ、ポツと落ち始めた雨粒は、あっという間に激しいスコールへと変わった。
ザーッ。
ザザァァッ。
窓ガラスを激しく叩く雨。遠くでは雷鳴が響いている。
ゴロゴロッ。
そして、玄関先から凄まじい音がした。
ズシャァンッ!
「ひゃあっ。な、何事?」
めいはランタンを手に取り、恐る恐る玄関へ向かった。
扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、敷居の上にうつ伏せで倒れている男だった。
全身泥だらけで、服はボロボロ。雨に濡れた黒髪からは水が滴り、濡れた服からは白い湯気が立ち上っている。
足には、使い古されて泥まみれになった初期型の脚甲を装着していた。肩からずり落ちた配達袋も、すぐそばに転がっている。
「だ、大丈夫ですか? 生きてますか?」
めいが慌てて駆け寄ると、男は板の間に頬を押しつけたまま、かすかに顔を上げた。
「ぐるるるるぅぅ……」
外の雷鳴にも負けないほど大きな音が、男のお腹から響き渡った。
「……腹が減りすぎて、死ぬ……。水、いや……何か食わせてくれ……」
「ええっ? お腹がペコペコなんですね。今すぐ、何か温かいものを用意します!」
めいは男を工房の中へ運び、薪ストーブのそばに座らせた。
薪ストーブの火が、パチパチと心地よい音を立てている。
めいは男の肩に大きな乾いたタオルを掛け、淹れたてのハーブティーを手渡した。
「はい、まずは温かいハーブティーをどうぞ。身体を温めてくださいね」
男はカップを受け取り、立ち上る湯気を見つめた。
「あったかい……。香りも、すげぇいい匂いだ」
そのとき、工房のオーブンから焼きリンゴが焼き上がった。
テーブルに置かれたのは、アマギ屋特製の焼きリンゴ。蜂蜜とシナモンがたっぷりとかけられ、溶けたバターと蜂蜜が黄金色の照りを放っている。
焼きたての甘い香りが、工房いっぱいに広がった。
「オーブンで焼いたばかりなんです。蜂蜜とシナモンをたっぷりかけてありますよ」
男は焼きリンゴを見つめ、目を輝かせた。
「な、なんだこれ。すっげぇ甘くてうまそうな匂いだ」
待ちきれない様子でフォークを手に取り、熱々のリンゴを大きく口に運ぶ。
「あふっ、熱い!」
男は一瞬顔をしかめたが、すぐに目を見開いた。
「けど、うまい! なんだこれ。とろとろで、甘くて……腹の底までじんわり染み渡る!」
よほどお腹が空いていたのか、男は頬をいっぱいに膨らませながら、夢中で焼きリンゴを食べ続けた。
その様子を見て、めいは思わず笑みをこぼした。
「ふふっ、慌てないでください。火傷しちゃいますよ」
男は返事をする余裕もないらしい。ハーブティーを飲むのも忘れ、焼きリンゴをあっという間に平らげてしまった。
食事を終えた男は、空になった皿とカップを前に、ベンチへ深々と寄りかかっていた。
お腹をさすりながら、ようやく生き返ったような顔をしている。
「ごちそうさん。助かったよ」
そう言って一息ついた男は、ふと隣の作業机に目を向けた。
机の上には、出荷を待つ気象小瓶が山積みになっていた。その横には、赤い「遅延」のスタンプが押された帳簿が置かれている。
「ん? 何だ、その小瓶と帳簿は?」
「あ……それは、今日の配達の荷物で……」
めいが言葉を濁すと、男は作業机に近づき、小瓶を一つ手に取った。
瓶の中の気象結晶は、澄んだ光を放っている。調合の状態を確かめた男は、帳簿に目を落とした。
「なるほどな。調合の腕は一流なのに、配達が間に合っていないのか」
めいはうつむいた。
「私一人じゃ、街の端から端まで走っても、どうしても三十分は遅れてしまうんです」
「そりゃ大変だな。せっかくの品物も、時間に間に合わなきゃ客は困る」
男は小瓶を机に戻し、立ち上がった。
「俺は風歩きの蔵。帝都じゃ流れ者の無宿人だが、走る速さだけは誰にも負けない」
蔵は足に装着した使い古しの脚甲を軽く叩いた。
そして、そばに転がっていた自分の配達袋を拾い上げると、机の上に積まれた気象小瓶と伝票を次々と詰め込んだ。
「ただ飯を食って逃げる趣味はない。その焼きリンゴとお茶の代金代わりに、たまった荷物を全部届けてやるよ」
「ええっ? で、でも、外はこんな土砂降りですよ。もう夕方で、暗くなっているのに」
窓の外では、雨が石畳を激しく打ちつけていた。
蔵は気にする様子もなく、にやりと笑った。
「俺を誰だと思ってんだ? 嵐なんざ、追い越してやるよ」
そう言うなり、蔵は扉を開け放ち、雨風が吹きつける石畳の通りへ飛び出していった。
「ま、待って、蔵さん!」
めいの声は、激しい雨音にかき消された。
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それから三十分後。
激しかった雨はすっかり上がり、夕暮れの西日が濡れた石畳を琥珀色に照らし始めていた。
その頃、アマギ屋の前に人影が現れた。
蔵は屋根の上から軽やかに飛び降り、店の前に着地した。
肩で息を切らしながらも、得意げな笑みを浮かべている。
「ぜぇ、はぁ……。街の端から端まで、三十分ジャスト! 全部きっちり配り終えてきたぞ!」
蔵は分厚い配達受領伝票の束を、めいに差し出した。
めいは急いで伝票を確かめた。
そこには、すべての注文に「受領完了」のスタンプが押されていた。
「あんなに遠かったのに、全部? お客さんも喜んでくれてる!」
めいは伝票を胸に抱きしめた。
「ありがとうございます、蔵さん! これなら、私、お店を畳まずに済みます!」
「約束だからな。リンゴ代の借りはこれでチャラだ。じゃあな、鈍亀」
蔵は軽く手を振り、その場を立ち去ろうとした。
「あ、あのっ!」
めいは慌てて呼び止めた。
「明日も焼きリンゴとお茶を用意しておきます。また、飲みに来てくれませんか?」
蔵は夕日に染まる石畳の上で立ち止まり、首の後ろをぽりぽりとかいた。
そして、少し照れたように振り返る。
「大手のお堅い連中は肌に合わないからな。気が向いたら、また寄ってやるよ」
そう答えた蔵は、アマギ屋の暖かな灯りを見つめ、不器用な笑みを浮かべた。
こうして、めいと蔵は出会った。
その後、蔵は焼きリンゴとハーブティーを目当てに、たびたびアマギ屋へ通うようになった。
最初は食事のお礼として配達を手伝っていただけだったが、やがて蔵は店の仕事にも慣れ、めいから正式に配達を任されるようになった。
こうして、蔵はアマギ屋専属の配達員となったのだった。
めいが16歳、蔵が18歳当時の話です。
ちなみにめいのおじいさんは120歳まで生きて大往生してます。




