天気の流通停止①
翌朝。
かつての帝都では、毎朝六時きっかりに、まばゆい人工晴天が空に投射されていた。
しかし、その朝は違った。
巨大な時計塔も、アーケードの看板も、明かりが消えたままだ。気象結晶配給所の重い鉄製シャッターには、固くチェーンが掛けられている。
上空には、百年間ほとんど見ることのなかった、薄曇りの自然の雲が広がっていた。生ぬるい風が石畳の上を静かに吹き抜けていく。
いつもとはまったく違う朝だった。
エプロン姿のパン屋や買い物籠を持った女性、仕入れに来た老商人たちが、気象結晶配給所の前に集まっていた。
「おい、毎朝決まった時間に点灯する統括府の晴天シグナルが、今日は点かないぞ」
「帝都の晴れが止まるなんて、生まれてこのかた一度もなかったぞ。いったい、お上の管理機構に何が起きたんだ」
人々が見つめる配給所の扉には、こんな張り紙が掲げられていた。
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気象結晶配給所:システム障害につき休業
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人々は戸惑いながら、一斉に頭上を見上げた。
「なあ、今日の空、妙に白っぽくないか?」
「晴れるのか。それとも、雨が降るのか?」
百年間、天候をお金で買い、好きな天気を指定する暮らしを続けてきた帝都の住民たちは、空を見て天気を予想する感覚をすっかり失っていた。
時計塔の向こうには、どこまでも静かな白曇りの空が広がっている。
肌をなでる自然の風は、人工的に調整された空気とは違い、ひんやりとして心地よかった。
それでも、人々の顔から不安が消えることはなかった。
「天気を買えない朝なんて、生まれて初めてだ」
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一方、中央気象統括府の窓口前では、市民たちが詰めかけ、怒りの声を上げていた。
「おい、役人を出せ! 今日の昼から貴族の馬車を出す予定なんだぞ。雨が降ったらどう責任を取るんだ」
「うちだって、ホテルから頼まれたシーツが山積みなんだ。晴天ボトルを売ってくれなきゃ仕事にならねえ」
「ママー、お空が灰色だよ。お日様は壊れちゃったの?」
母親に手を引かれた子どもが、不思議そうに空を見上げた。
「どうしましょう。傘なんて家にあったかしら。雨は夜中に降るものだと教わってきたのに」
「今日の商談はどうなるんだ。晴れるのか、雨なのか、何時に降るのかすらわからないなんて。こんな不確かな世界で、どうやって生活しろと言うんだ」
商人は懐中時計と予定を書き込んだ手帳を握りしめ、顔面蒼白になっていた。
百年間、指定された晴天の下で経済活動を続けてきた帝都の住民たちには、どうすればいいのか見当もつかない。
「どうすりゃいいんだ」
「誰か、天気を教えてくれ」
不安は次第に広がり、窓口前は混乱に包まれていった。
そのとき、一人の商人が手にしていた古い気象瓶を掲げた。
「こうなったら、手持ちの予備ボトルを力ずくで開けてやる。晴れさえ出せば何とかなるはずだ」
商人や御者たちが、バールを使って気象瓶の封止栓をこじ開けようとする。
「よせ、無理に開けたら危険だ!」
制止する声もむなしく、封止栓の隙間から不安定な火花が漏れ始めた。瓶の表面には細かな亀裂が走り、今にも暴発しそうな状態だった。
「そこまでだ! 気象瓶には手を触れるな!」
騒然とする市民たちの前に、一人の青年が進み出た。
シルフィ・アウラだった。
シルフィは市民たちを制止すると、危険な気象瓶を慎重に確認した。内部で暴走しかけたマナを逃がすため、手早く処置を施す。
やがて火花が収まり、瓶の震えも止まった。
シルフィの制服からは、統括府の公式腕章が外されていた。
かつては統括府の命令を疑わなかった彼も、目の前で危険にさらされている市民を見捨てるつもりはなかった。
シルフィは気象瓶が安定したことを確かめてから、市民たちに向き直った。
「中央気象統括府のシステムが停止した今、旧式の結晶を無理に開栓すれば、内部の圧力が異常に高まり、爆発する危険がある。力ずくで天気を作り出そうとするな」
「あ、あいつは統括府のエリート監視官じゃないか?」
「いや、腕章を外しているぞ」
市民たちがざわめくなか、シルフィは落ち着いた声で語りかけた。
「慌てることはない。空が落ちてくるわけではない。百年間忘れていた、本来の自然が戻ってきただけだ」
そう言って、シルフィは曇天の空を見上げた。
「天気を待つんだ。風の匂いを感じ、雲の流れを見る。自然の中で暮らす者にとっては、当たり前のことだ」
市民たちは手にしていた工具を下ろし、静かに耳を傾けた。
空がどう変わるのか、まだ誰にもわからない。それでも、シルフィの言葉を聞くうちに、張り詰めていた空気は少しずつ和らいでいった。
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一方、アマギ屋の店先にも、昨晩の異変に不安を感じた街の人々が集まっていた。
冷え込む朝の空気の中、めいは湯気の立つ真鍮の薬缶から、素焼きのマグカップへハーブティーを注いでいた。
「皆さん、温かい薬草茶をどうぞ。大地のミントとカモミールです。体を温めて、少し落ち着いてくださいね」
「ありがとう、めいちゃん」
「冷たい風で手がかじかんでいたから、助かるわ」
めいはカップを手渡しながら、穏やかに微笑んだ。
「自然の風は、決して意地悪じゃありません。空が呼吸しているだけですから、怖がらなくても大丈夫ですよ」
温かいお茶をすするうちに、人々の張り詰めていた表情が少しずつ和らいでいった。
そこへ、店の庇の上から軽快な音が響いた。
蔵が風の脚甲を鳴らしながら、ひらりと店先に降り立ったのだ。
「めい、屋根の上から帝都上空の気流をひと回り調べてきたぞ」
「おっ、アマギ屋の兄ちゃんだ!」
蔵はめいから差し出されたお茶を受け取り、一口飲んだ。それから、集まった人々に空の様子を説明した。
「上空の気流は南西から緩やかに流れている。雲の動きも穏やかだし、気圧の差も安定している。少なくとも昼過ぎまでは雨は降らないだろう。洗濯物も外に干して大丈夫だぜ」
「本当かい?」
「よかった。それなら急いでシーツを干してこよう」
人々の表情に、ようやく安堵の色が浮かんだ。
めいは蔵に笑顔を向けた。
「お疲れさま、蔵。頼りになるわね」
「これくらい朝飯前だ」
蔵は得意げに笑い、手にしたマグカップを傾けた。
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昨晩、中央気象統括府本部。
赤く点滅する警告灯が、薄暗いサーバ室を不気味に照らしていた。
中央気象統括府の中枢システムは、異常を知らせる警告音を鳴らし続けている。画面には警告表示が次々と現れ、制御装置の数値も激しく変動していた。
それにもかかわらず、幹部たちはシステムの強制再起動を命じていた。
「強制起動など無謀です! 内圧が臨界を超えれば、世界そのものが破綻しかねません。民を見捨てることが、あなた方の言う法と秩序なのですか!」
シルフィは幹部に詰め寄った。
しかし、幹部は表情ひとつ変えなかった。
「統御に生じる歪みは、計算上の許容範囲だ」
「ですが、このままでは取り返しのつかない事態になります」
「これ以上の議論は不要だ。システムを強制起動しろ」
冷酷な命令がサーバ室に響いた。
シルフィは幹部たちを見渡した。
彼らにとって、守るべきものは市民の暮らしではない。帝都の晴天を維持する仕組みと、それによって成り立つ権力だった。
百年前に故郷を失った人々も、今、危険にさらされている市民も、彼らにとっては計算上の数字にすぎない。
シルフィは、もう彼らと同じ道を歩むことはできないと悟った。
彼は左腕に留められた公式腕章を引きちぎり、床へ投げ捨てた。
そして、手元にあった青白くデータを宿す「極秘監査円盤」を握りしめる。
統括府が隠し続けてきた真実を明らかにするために。
「ならば、私は私の正義に従う」
シルフィは円盤を手に、警告灯が点滅するサーバ室を後にした。
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現在、アマギ屋。
朝の騒ぎが少しずつ落ち着き、店内にも穏やかな空気が戻りつつあった。
めいと蔵がひと息ついていると、工房の勝手口から静かなノック音が響いた。
コン、コン。
「誰だ? こんなときに裏口から来るなんて」
蔵は警戒しながら勝手口へ向かい、慎重に扉を開けた。
そこに立っていたのは、埃をかぶり、左袖の腕章が引きちぎられた制服姿のシルフィだった。
「げっ、お役人! 兵隊を引き連れて、差し押さえの続きかよ」
蔵が身構えると、シルフィは疲れた表情で首を横に振った。
「一人だ。追手をまくのに骨が折れた」
そう言って、シルフィは蔵の背後にいるめいへ視線を向けた。
「めい殿、蔵。統括府が百年間隠し続けてきた『真実の大気図面』を持ってきた。手を貸してくれ」
「シルフィさん……」
めいは驚きながらも、彼の手元に目を向けた。
統括府の腕章を失った監視官が、なぜ自分たちのもとへ戻ってきたのか。
そして、彼が持ってきたという大気図面には、何が記されているのか。
百年にわたる帝都の晴天を支えてきた仕組みの真実が、いよいよ明らかになろうとしていた。




