雨を引き受けた街①
薄青い朝霧が街を包むなか、アマギ屋の格子窓から、温かなランタンの灯りが漏れていた。
めいと蔵は、徹夜で机に向かっていた。
机の上には、旧・第零気象観測所から持ち帰った百年前の書類や地図が広げられている。定規や羽ペン、すっかり冷めたコーヒーも散らばり、二人が夜通し調査を続けていたことを物語っていた。
めいは地図を見つめながら、ペンで帝都から東西へ延びる「大気回路」をなぞった。やがて、離れた場所に描かれていた複数の線が、一本の太い線につながった。
「つながったわ。百年前の旧・第零気象観測所の記録と、今の統括府が隠している大気の移送経路が一致したの」
めいはインクのついた指先で地図を押さえ、説明を続けた。
「帝都の晴天を永続的に維持するために、大量の余剰湿気や気流の歪みが発生する。それを地下のバイパス回路を使って、東西の辺境へ強制的に送り込んでいたんだわ」
蔵は地図を見下ろしたまま、拳を握りしめた。
「親父が言ってたぜ。『ウチの谷は、お上の地図に載っていない忌み地だ』ってな。子どもの頃は意味が分からなかったが、百年前から仕組まれてたんだ。そして十数年前、溜まりに溜まった嵐が降ってきて、俺たちの家も風も全部消し飛んだ。あれが『最初からなかった村』の結末だったんだ」
その声には、抑えきれない怒りがにじんでいた。
徹夜の疲れが二人の顔に浮かんでいる。それでも、めいの瞳から決意が揺らぐことはなかった。
机の端には、祖父の形見である「正規調合師章」と、書き上げたばかりの正式な再審理申請書が置かれていた。
「この記録があれば、国家による隠蔽を公の場で問いただせる。朝一番で中央気象統括府に行って、記録の開示と再審理を正式に申請しましょう」
めいの言葉に、蔵は冷めたコーヒーカップを両手で包んだ。
しばらく黙っていたが、やがて、うつむいたまま口を開いた。
「俺の故郷の谷には、昔、本当に豊かな風が吹いていたんだ」
蔵の脳裏に、幼い頃の光景がよみがえる。
断崖に囲まれた雄大な峡谷。澄み渡る高地の風が吹き抜け、風歩きの一族は手製の木製グライダーで空を滑空していた。
風の流れを読み、鳥のように空を飛ぶ。それが一族の暮らしであり、誇りでもあった。
「俺たちにとって、空と風がすべてだった」
しかし、その日常は突然終わりを迎えた。
「ある日、見たこともない紫黒の積乱雲が谷の上空を埋め尽くした。終わらない暴風雨が谷底を襲って、家も足場も次々と流されていったんだ」
蔵の脳裏に、あの日の光景が鮮明によみがえる。
空を覆う異様な色の雲。谷を切り裂く豪雨と落雷。激しい水の流れに押し流されていく吊り橋や木製の足場。
そして、風歩きの一族にとって命綱だった上昇気流も、完全に失われた。
空を飛ぶことができなくなった一族は、暮らしの場を失い、散り散りになった。谷は水没し、やがて地図からも消えていった。
「家族も、みんな消息不明だ。あの災害が、帝都の晴れを守るために計算された結果だったなんてな」
蔵は言葉を切り、唇を強く結んだ。
「統括府にとっちゃ、俺たちが失ったものも、ただの数字だったんだろう。でも、俺たちにとっては人生そのものだった」
めいは机越しに手を伸ばし、蔵の拳にそっと手を重ねた。
「蔵……」
それ以上、かける言葉が見つからなかった。
それでも、めいは目をそらさなかった。真実を明らかにすることが、失われた故郷と人々に向き合うために必要なのだと、改めて感じていた。
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中央気象統括府。
巨大な石造りの官庁は、古典的な建築様式を思わせる威厳ある姿で、朝の街にそびえ立っていた。
高いアーチ天井から冷たい光が差し込むロビーでは、厳めしい制服を着た官吏たちが忙しそうに行き交っている。壁には歴代の統括官の肖像画が並び、建物全体から巨大な権力機構の威圧感が伝わってきた。
しかし、めいと蔵はひるむことなく、まっすぐ申請窓口へ向かった。
真鍮の格子で仕切られた窓口の向こうには、処理を待つ大量の書類が積み上がっている。
受付の官吏は、二人を見るなり面倒そうに手元の書類をめくった。
「民間人が何の用だ。民間の気象配分申請なら、第三窓口に並び直したまえ」
「気象配分の申請ではありません。正式な再審理申請です」
めいは、祖父の形見である正規調合師章を取り出した。
「雲と三つ葉」の紋章が刻まれた真鍮の章を、窓口の向こうへはっきりと掲げる。
続いて、旧・第零気象観測所の記録の写しと、正式な再審理申請書をカウンターに置いた。
「私はアマギ屋第三代店主、正規気象調合師のめいです。帝国気象管理法第十二条に基づき、旧・第零気象観測所の記録の公的開示と、地域大気配分の再審理を申請します」
官吏は小眼鏡を指で押し上げ、書類に目を落とした。内容を確かめるにつれ、その顔に嘲るような笑みが浮かんだ。
「下町の零細天気屋が、調合師章を盾に国家記録の再審理だと? 身の程を知りなさい。統括府の計算に誤りなど存在しない」
「誤りがないかどうかを確かめるために、法律があるはずです。正式に受理してください」
めいは一歩も引かなかった。
官吏は不満げに舌打ちすると、申請書を手元に引き寄せた。
「預かってやる。どうせ上層部で一蹴されるだろうがな」
「申請完了されたことは確認しました。ありがとうございます」
めいは冷静に答え、蔵とともに窓口を離れた。
こうして、二人の再審理申請は、ひとまず窓口で受け付けられた。
統括府を後にした二人はアマギ屋へ戻った。申請の行方は気がかりだったが、店を休むわけにはいかない。
二人は気持ちを切り替え、いつもの業務に取り組んだ。
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翌朝。
アマギ屋の店内には、朝の光が差し込んでいた。
めいは魔導情報端末を机に置き、前日の申請状況を確認しようとしていた。
「昨日の申請なら、もう中央台帳に登録されているはずよ」
そう言いながら、めいは端末を操作する。
照会画面に、文字が次々と表示された。
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照会:旧・第零気象観測所/大気移送履歴
照会:第109号・再審理申請書
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ところが、しばらく待っても検索結果が表示されない。
画面にノイズが走ったあと、無機質な文字が浮かび上がった。
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【該当データなし】
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「えっ……?」
めいは画面を見つめたまま、息を呑んだ。
申請書が登録されていないだけではない。照会した旧・第零気象観測所の記録まで、見つからなくなっていた。
百年前の記録を保管していた観測所そのものが、国家のデータベースから跡形もなく消されている。
「そんな……。申請が受理されていないどころか、観測所の記録そのものが、最初から存在しなかったことになってる」
めいの声が震えた。
窓口では、確かに申請書を受け取っていた。にもかかわらず、その痕跡すら残っていない。
蔵は端末の画面をにらみつけた。
「あいつらにとっちゃ、真実を消すなんて簡単なんだよ。最初から、正攻法で話が通じる相手じゃなかったんだ」
めいは唇を噛んだ。
法律に従って正式に申請すれば、少なくとも記録を調べる機会は得られる。そう考えていた。
だが、統括府は申請を退けるどころか、証拠そのものを消し去ろうとしている。
これでは、真実を公の場に持ち出すことさえ難しい。
二人が次の手を考えようとした、そのときだった。
店のドアベルが、けたたましく鳴り響いた。
めいと蔵は、同時に入口を振り返った。




