地図にない故郷②
ランタンの光が揺れる中、めいは百年前の『帝国全土気候配分原簿』を、震える手でめくっていた。
「東部管区……第三管区……あった、このあたり」
手袋をした指先が、墨で書かれた集落の記録の上で止まった。
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東部第三管区 水撫の里
年間降水目安:千二百ミリ
清流と風車、薬草と藍染めを主産業とする自治集落
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「見つけた。『水撫の里』……私の故郷。おじいちゃんと暮らした、大好きな故郷」
めいの脳裏に、幼い頃の光景がよみがえった。
澄んだ清流。川沿いに並ぶ木造の水車。風に揺れる柳並木。そして、優しく降る雨。
幼いめいは無邪気に笑い、祖父から小さなガラスの雨滴チャームを手渡されていた。
しかし、ある日突然、故郷は大嵐に襲われた。
美しかった村は壊滅し、めいの記憶もそこで途切れている。家族も祖父以外は行方がわからなくなり、気づけばめいは祖父とともにアマギ屋で暮らしていた。
「本当にあったんだわ……。おじいちゃんの工房も、あの川も。夢なんかじゃなかった」
めいは胸元をぎゅっと握りしめた。目に涙がにじむ。
そんなめいの悲しみを受け止めるように、蔵はいつもの軽口を封じ、優しい眼差しを向けた。
「……ああ、夢じゃない。お前が覚えていたとおりの、美しい村だったんだ」
蔵は原簿の一角を指さした。
「だけど、めい。この台帳の『備考欄』を見てみろ」
めいは、蔵が指し示す欄に目を向けた。
幼い頃の温かな記憶とは対照的に、そこには不穏な朱色の文字が書き込まれていた。
「備考欄? これ、何か書かれているわ」
「よく読んでみろ。統括府の連中が、お前の村に何をしたのかが記されている」
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帝国暦三四四年七月十二日 抹消
指定:第零号気象制御実験に伴う気流遮断
当該区域、気象管理対象外。
以降、居住者記録を更新する必要なし。
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「『居住者記録を更新する必要なし』?」
めいの顔から血の気が引いた。
「気流を遮断したうえに、そこに暮らしていた人たちの記録まで更新しないってこと? まるで、最初から誰も住んでいなかったみたいに扱ったというの?」
めいは信じられないという顔で、記録を見つめた。
「私の生まれた水撫の里は、百年前の時点ですでに『気象管理対象外』にされていた。つまり、国の管理から切り離されて、記録の上では存在しない村にされていたのね」
めいは机の縁を、両手が白くなるほど強く握りしめた。
「こんなの、あんまりだわ。人が生きるために必要な雨を奪っておいて、紙切れ一枚で『存在しない』ことにするなんて。命を育むはずの天気を、人を消す道具にするなんて、絶対に許せない」
怒りに震えるめいの肩に、蔵がそっと手を置いた。
「怒って当然だ、めい。あいつらは数字と効率を優先して、他人の故郷も命も平気で切り捨てる」
蔵は記録を見つめたまま、静かに続けた。
「だけど、これではっきりした。お前の村が消えたのは、ただの天災や運命なんかじゃない。人の手が関わっていたんだ」
蔵はランタンの光の向こうにある、高層気象記録棚を見据えた。
「……そして、俺の村も同じかもしれない。めい、もう一つの台帳を探すぞ。『風哭の谷』。俺が育った、風の谷の記録だ」
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蔵は書架に備え付けられた鉄製の移動梯子を上り、高層気象記録棚の上段から、分厚い黒革の大型台帳を引き抜いた。
下からめいがランタンを掲げ、蔵の手元を照らす。
「西部管区……高層気流の記録……あったぞ、これだ」
蔵は机に戻り、台帳の埃を払って慎重に開いた。
手袋をした指先で墨文字の列を追い、ある記録の上で手を止める。
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西部第七管区 風哭の谷*
標高千八百メートル
山脈気流交差点に位置する、風歩きの自治集落
特有の上昇気流と風嚢栽培
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「……そういうことかよ」
蔵の表情が険しくなった。
「俺たちの親父やお袋も、国の記録じゃ、とっくに『存在しない人間』扱いされていたんだ。村を地図から消して、気象管理の対象から外した。だから、十数年前にあんな大嵐が襲ってきても、国は何もしなかったのか」
蔵の脳裏にも、幼い頃の記憶がよみがえった。
険しい峡谷の断崖絶壁。
その間を、自作のグライダー翼を背負った幼い蔵が、満面の笑みで風に乗っていた。
周囲では、鳥のように軽やかに山の尖った峰々の間を飛び交う「風歩き」の大人たちが、風を自在に操っていた。
「俺たちは、険しい断崖を吹き抜ける風に乗って空を駆ける一族だった。風の匂いだけで天気が読めたんだ。俺の身体に染みついた技術は、全部あそこで教わったものだ」
「蔵。あなたが誰よりも風を敏感に感じ取れる理由が、わかった気がするわ」
「ああ。だけど、あの風もある日突然狂い始めて、故郷は跡形もなく消えちまった」
「蔵の故郷も、そんなことになっていたのね」
めいは悲しそうに蔵を見つめた。
やがて、机に身を乗り出し、台帳の末尾に記された風哭の谷の最終観測日を指さした。
「ねえ、蔵。この台帳の最後の観測記録の日付を見て」
「ん? 日付がどうした?」
めいは水撫の里の記録と見比べ、顔を強張らせた。
「これを見て。私の村、水撫の里の抹消日と、あなたの故郷、風哭の谷の最後の記録の日付が……」
二人は並べた台帳を食い入るように見つめた。
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東部第三管区 水撫の里
抹消日:帝国暦三四四年七月十二日
西部第七管区 風哭の谷
気流異常・観測途絶:帝国暦三四四年七月十二日
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「百年前の帝国暦三四四年七月十二日。私たちの二つの故郷は、同じ日に記録から消されていたのね」
めいは震える声でつぶやいた。
「まるで、天気の生贄にされたみたいに……」
蔵は怒りを抑えきれず、机を拳で叩いた。
「偶然とは思えねえ。統括府の実験か何かで、俺たちの故郷が同時に犠牲にされたんじゃないか」
「巨大な気象操作が行われて、その影響が東西の辺境に押しつけられたのかもしれない」
めいは二つの記録を見つめながら、必死に考えを巡らせた。
水撫の里と風哭の谷。遠く離れた二つの故郷が、同じ日に記録から消されていた。
それは、偶然で片づけられることではなかった。
そのとき、張り詰めた静寂を破る、硬い金属音が響いた。
カチン。
保管庫の中央に据えられた巨大な蓄音機。その装置に組み込まれた蓄音水晶球が、百年の眠りから覚めたかのように、青白く不思議な光を放ち始めた。
二人は息をのみ、音のした方へ振り返った。
「何だ、今の音は?」




