地図にない故郷①
北の険しい山嶺。
雲海と深い霧に包まれた山の奥に、百年前の遺物が眠っていた。
『旧・第零気象観測所』。
現行の気象管理システムが整備される以前に建設され、のちに帝国気象統括府によって封鎖された観測基地だ。
防寒用の旅マントを羽織っためいと蔵は、足元を冷たい霧が流れる中、真鍮のランタンを掲げて目の前の建物を見上げた。
建物は半ば崩れ、外壁には無数のひびが走っている。それでも、内部にはまだ魔導装置が動いているような気配があった。
「ここが旧・第零気象観測所ね。外側はひどく傷んでいるけれど、内部の魔導装置はまだ生きているかもしれないわ」
二人の前には、巨大な鉄扉が立ちはだかっていた。頑丈なボルトで固定され、長い年月を経て全体が赤黒く錆びついている。
扉の脇には、青錆に覆われた銅製の銘板があった。
めいが表面の汚れを拭うと、かすれた文字が浮かび上がった。
――帝国気象統括府 第零観測研究棟
――帝国暦三四五年封鎖・永久立入禁止
「永久立入禁止、か。わざわざこんな警告を残しているってことは、よほど知られたくないものがあるんだろうな」
蔵は鉄扉を見上げ、口元をわずかに緩めた。
「不法侵入は感心しないけれど、百年前の真実を確かめるためよ。ここまで来たんだから、引き返すわけにはいかないわ」
「そうだな。よし、開けるぞ」
蔵は頑丈なバールを扉の隙間に差し込み、全体重をかけた。
百年分の錆が剥がれ落ち、扉の内部から重い歯車の軋む音が響く。
「かなり錆びついているが、これならいける!」
蔵がさらに力を込めると、バキッと大きな音がした。
やがて、重い鉄扉が少しずつ開いていく。
その隙間から、冷気と埃が一気に吹き出した。二人の髪とマントが風に煽られる。
「よし、開いたぞ!」
「さすが、蔵。でも、すごく冷たいわね。百年間、誰も入っていなかったのかしら」
めいはランタンを掲げ、扉の向こうへ足を踏み入れた。
調合ランタンの出力を上げると、金色の光が暗闇を照らし、舞い上がった埃が光の中を漂った。
その先に広がっていたのは、想像を超える広さの記録保管庫だった。
石造りのアーチ天井を太い円柱が支え、天井近くまで巨大な螺旋書架が連なっている。棚には何千冊もの革表紙の気象台帳が並び、真鍮の天球儀やアストロラーベも、使われなくなったまま静かに置かれていた。
「外からは崩れかけた建物にしか見えなかったのに、中はとんでもないな。百年前の帝国中の気象記録が、ここに集められているのか」
蔵は鉄製の保管ラックに近づき、溝の刻まれた真鍮の円盤を手に取った。
「紙の記録だけじゃない。この円盤には、音や気圧の変化が直接刻まれているらしい。百年も経っているのに、ほとんど歪んでいないぜ」
蔵が円盤を調べている間に、めいは部屋の中央に置かれた大きな机へ向かった。
机の上には、埃をかぶった銘板が残されていた。めいがそっと息を吹きかけると、表面の埃が舞い、真鍮の文字が姿を現した。
――帝国気象統括府 原簿保管課
――帝国全土気候配分原簿(帝国暦三〇〇~三四四年)
「帝国全土気候配分原簿。これだわ!」
めいは机の背後にある書架へ目を向けた。
下段には、真鍮の金具で補強された大型の台帳が並んでいる。その中から、銘板に記された名前と同じものを見つけた。
めいは両手で慎重に引き出し、表紙を確かめた。
「あった。百年前の『帝国全土気候配分原簿』よ!」
ようやく手がかりを見つけ、めいの表情が明るくなる。
「これなら、あの開拓村や、私たちの故郷についても、記録が残っているかもしれないわ。ただ、原簿を調べる前に、まずは古い地図で場所を確認しましょう」
「わかった。俺たちの故郷を消した連中が、何を記録していたのか確かめようぜ」
二人は机の上を片づけ、古地図を広げる場所を作った。
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めいは鞄から、黄ばんだ大判の羊皮紙を取り出した。
蔵と協力して地図を机の上に広げ、端を真鍮の文鎮やコンパスで押さえる。
そこには、当時の気流や山の高さ、河川の流れ、集落の名前まで、驚くほど細かく記録されていた。
「見て、蔵。百年前の『帝国全土気候配分図』よ。当時の気流も集落も、こんなに詳しく描かれているわ」
蔵は地図の隣に置かれた古い台帳を開いた。何ページかめくるうちに、ある記述に目が留まった。
「帝都の晴天保証が、百年前から統括府の最優先事項だったらしいな」
蔵の声が低くなる。
「帝都の晴天を守るために、周辺地域から雨を集めている。それだけじゃない。都市にとって邪魔な嵐や余分な湿気を、管理対象から外した村へ流していたんだ」
「そんなことが、最初から計画されていたの?」
めいは眉を寄せた。
「この記録が正しければな。だが、今の地図と比べれば、もっとはっきりするはずだ」
めいは鞄から、現在使われている帝国地図帳を取り出した。
古地図の横に並べ、真鍮の拡大鏡と測候針を使いながら、山脈や河川の位置を慎重に照合していく。蔵はランタンを掲げ、二人の手元を照らした。
「山脈の位置を基準にして、二枚の地図を重ねてみるわ」
めいは古地図の山並みを指でたどり、現行の地図帳と見比べた。
しばらくして、その手が止まった。
百年前の地図には、豊かな河川や森林、そして人々が暮らす集落がいくつも描かれている。
ところが、現行の地図では、同じ場所が白く塗りつぶされていた。
記されているのは、『非管理・不毛地帯(居住記録なし)』という文字だけだった。
「こんなに広い盆地や、大きな川のほとりにあった集落が、今の地図では丸ごと消されているわ。まるで、最初から何もなかったみたいに」
めいは二枚の地図を見つめたまま、言葉を失った。
蔵は革手袋をはめた指で、集落が消された場所を強く叩いた。
「不毛地帯なわけがない。百年前は水も風も豊かな土地だったんだ。それなのに、土地だけじゃなく、そこに暮らしていた人たちの歴史まで消されている」
その声には、抑えきれない怒りがにじんでいた。
めいは震える指先で、古地図に描かれた河川をなぞった。
人々が自然にいなくなったわけではない。
雨を奪われ、水の流れを変えられ、暮らしを支える天候を失った。そして、村が存在したという記録さえ、地図から消されてしまったのだ。
「自然に人がいなくなったんじゃない。天気の配分を意図的に断たれて、土地ごと地図から消されたんだわ」
めいの声はかすかに震えていた。
蔵は地図から目を離さず、静かに答えた。
「ああ。俺たちの故郷も、同じように消されたのかもしれない。この空白のどこかに、俺とお前の故郷があったはずだ」
百年前の記録と現在の地図。その食い違いは、単なる記載漏れではなかった。
帝国の空を守るために、誰かが別の土地の空を犠牲にしてきた。
そして、その仕組みは百年経った今も続いている。
めいと蔵は、古地図に残された無数の空白を見つめていた。
そこに隠されているのは、二人自身の過去につながる真実なのかもしれない。




