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第十四章 海の声

 新しい家での生活が始まってから一年が過ぎた。庭には時久が約束通り植えたたくさんのひまわりが太陽に向かって誇らしげに咲き誇っている。それは海の短い人生を象徴するかのように力強く、そして美しかった。


 沙月は「ひまわりホーム」での教師の仕事を続けながら、時久と穏やかで幸せな日々を送っていた。朝は一緒にコーヒーを飲み、夜は手を繋いでひまわり畑を散歩する。そんなささやかな日常が二人にとってはかけがえのない宝物だった。


 時久もまた指導者養成講座の講師として全国を飛び回りながら、写真家としての新しいキャリアを築いていた。彼の撮る写真はもはやただの風景写真ではなかった。その一枚一枚に人間の喜びや悲しみ、そして愛が深く刻み込まれていた。


「レガシー・プロジェクト」は当初の予想を遥かに上回る広がりを見せていた。全国各地から講座への参加希望が殺到し、時久と沙月は毎月のように地方に出張していた。しかしそれは単なる忙しさではなく、同じ悲しみを抱える人々との深い絆を築いていく充実感に満ちた日々でもあった。


 そんなある日の朝、沙月は体の異変に気づいた。最初は夏バテかと思った。しかし朝の吐き気と異常な眠気が続くにつれて、彼女の中である予感が芽生えた。


 まさかと思った。しかしその予感は確信へと変わった。産婦人科でのエコー検査の結果、沙月のお腹の中に新しい命が宿っていることが判明したのだ。


「おめでとうございます。順調に育っていますよ」


 医師の言葉を聞いた瞬間、沙月は病院の診察室で一人静かに涙を流した。それは喜びの涙であると同時に、複雑な感情が入り混じった涙でもあった。


 海を失った深い悲しみがようやく癒え始めた頃の、この新しい命。それは決して海の生まれ変わりなどではない。全く別の、新しい希望の光なのだ。


 その夜、沙月は時久にその知らせを伝えた。夕食後、二人でひまわり畑を歩いている時だった。


「時久さん。あなたに話があるの」


 沙月の改まった口調に、時久は立ち止まって振り返った。


「どうした?何か深刻な話?」


 沙月は少し微笑むと、時久の手を取った。


「深刻というか……とても嬉しい話よ」


 そして彼女は静かに告げた。


「私、妊娠したの」


 その瞬間、時久の世界が静寂に包まれた。風の音も、虫の鳴き声も、すべてが消え去り、ただ沙月の言葉だけがその空間に響いていた。


 時久は言葉を失い、ただ沙月の手を握りしめることしかできなかった。そしてその大きな目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。


「……ありがとう。沙月……ありがとう」


 彼がようやく絞り出したその言葉には、感謝と喜び、そして言葉では表現できないほど深い愛が込められていた。


 二人は固く抱き合った。その温かい抱擁の中で、沙月は時久の肩が小刻みに震えているのを感じた。この不器用で優しい男が、父親になることへの期待と不安で心を震わせているのだ。


「今度は最初から一緒にいられる」


 時久がかすれた声でそう呟いた。


「今度は逃げない。この子を、そしてあなたを絶対に守り抜く」


 その力強い決意の言葉に、沙月は安心感で胸がいっぱいになった。この人となら、きっと素晴らしい家族を築いていけるに違いない。


 妊娠がわかってから、二人の生活は少しずつ変化していった。時久は出張の回数を減らし、できるだけ家にいる時間を増やした。沙月の体調を気遣い、朝は彼女が起きる前に朝食を用意し、仕事から帰ると足のマッサージをしてくれる。


 沙月のつわりが酷い時期には、時久が仕事を休んで看病してくれた。吐き気で何も食べられない沙月のために、栄養価の高いスープを作ったり、氷を口に含ませてくれたり。その献身的な介護ぶりに、沙月は改めて時久の優しさを実感していた。


 産婦人科の定期検診には、時久も必ず付き添った。エコーの画面に映る小さな命を二人で息を詰めて見つめる。最初は米粒のような小さな点だったのが、やがて人の形になり、手足が動いているのが分かるようになった。


「すごいな……本当に生きてるんだ」


 時久がモニターを食い入るように見つめながら呟いた。その表情には驚きと、そして深い感動が宿っていた。


「この子はどんな子になるんでしょうね」


 沙月が優しく自分のお腹を撫でながら言った。


「きっと海みたいに優しい子になるよ」


 時久がそう答えると、沙月の目に涙が浮かんだ。


「そうね。そして、あなたみたいに世界中の美しいものを見つけられる子になるかも」


 二人は手を繋ぎ、お腹の中の新しい命への愛を静かに育んでいった。それは海への愛とは全く違う、しかし同じように深く、そして尊い愛だった。


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