第十三章 二人のアルバム
健太からの時を超えた手紙は時久の心に深く、そして温かく刻まれた。あの夜以来、彼はもはや迷うことはなかった。自分の進むべき道がはっきりと見えたからだ。親友が託してくれた言葉は、まるで霧に覆われていた彼の未来に一筋の光を差し込ませた。
その週末、時久は沙月をある場所に連れ出した。車で三十分ほど走った都心から少し離れた緑豊かな丘の上。そこには築二十年ほどの小さな一軒家が静かに佇んでいた。
「……ここは?」
沙月が不思議そうに尋ねた。家の周りは手入れの行き届いた庭に囲まれ、まだ誰も住んでいないにもかかわらず、なぜか温かみを感じさせる佇まいだった。
「……俺たちの家だ」
時久は少し照れくさそうに、しかし確信に満ちた声でそう言った。
「え……?」
沙月は思わず時久の顔を見上げた。その表情にはいつもの穏やかさに加えて、今まで見たことのない強い決意が宿っていた。
「この一年間、僕は必死で働いた。写真の仕事だけでなく、深夜のアルバイトもして。そして貯めた金でこの家を買ったんだ」
時久は鞄から取り出した鍵束を沙月の前に差し出した。
「まだ中古の小さな家だけど……ここなら庭もあるし、海の好きだったひまわりもたくさん植えられる。それに、ここから沙月さんの職場までも車で二十分ほどだ」
彼の声にはこれまで聞いたことのない優しい興奮が込められていた。世界中を旅してきた男が、初めて「定住」という言葉を自分の人生に組み込もうとしている瞬間だった。
時久は玄関の鍵を開け、沙月を家の中へと招き入れた。陽当たりの良いリビングは白い壁に囲まれ、まだ家具はほとんどない。しかしその殺風景な空間にも不思議な温かさが漂っていた。
そのがらんとしたリビングの壁には一枚だけ大きな写真が飾られていた。それはあの最後の夏に撮ったひまわりに囲まれた三人の家族写真。海の満面の笑顔が部屋全体を明るく照らしているかのようだった。
「時久さん……」
沙月はその写真を見つめながら言葉を失った。
「僕はもう逃げない」
時久はそう言うと、沙月の正面に向き直った。その真剣な眼差しを受けて、沙月の心臓が激しく鼓動を始めた。
「沙月さん。いや……沙月」
時久が初めて彼女の名前を呼び捨てにした。その親密さに沙月の頬がほんのりと赤く染まる。
「俺と結婚してください」
時久は今度は指輪ではなく、この家の鍵を彼女の前に差し出した。
「俺はもうどこにも行かない。ここであなたと、そして海の思い出と一緒に生きていきたいんだ。僕たち三人の新しい人生を、この場所から始めませんか」
その言葉は決してロマンチックなプロポーズではなかったかもしれない。しかし沙月にとってはどんな甘い言葉よりも心に響いた。この男は本気で自分と共に人生を歩もうとしているのだ。
沙月の大きな瞳からぽろぽろと喜びの涙がこぼれ落ちた。
「……はい。喜んで」
彼女がそう答えた瞬間、時久の顔がぱあっと輝いた。二人は自然に歩み寄り、固く抱き合った。それはプロポーズという言葉だけでは表現しきれない、もっと深く、そして尊い魂の誓いだった。
二人は結婚式は挙げないことにした。華やかなセレモニーよりも、静かに二人だけで人生を誓い合いたかったのだ。区役所で婚姻届を提出した帰り道、二人は小さな写真屋で記念写真を撮った。ぎこちない笑顔ながらも、二人の表情には確かな幸せが宿っていた。
その代わりに二人は新しいアルバムを作り始めた。それは沙月のあの古いアルバムの続きのページ。そしてこれから二人で作り上げていく未来のアルバムだった。
最初のページには婚姻届を提出したその日に撮ったぎこちない二人の笑顔の写真が貼られた。写真屋のおじいさんが「お幸せに」と言ってくれた時の、照れくさそうな二人の表情がそこにあった。
次のページには新しい家でペンキだらけになりながら壁を塗り替えている楽しそうな二人の姿。沙月が時久の頬にペンキを付けて笑っている写真や、時久が脚立から転びそうになって沙月が支えている瞬間を撮った写真など、何気ない日常の一コマが貼られていく。
その次のページには庭にひまわりの種を植えている二人の写真。時久が丁寧に土を耕し、沙月が一粒一粒種を蒔いている。その真剣な表情からは、ただの園芸作業ではなく、海への愛を形にする神聖な作業であることが伝わってくる。
家具を選びに行った家具店での写真、一緒に料理をしている台所での写真、夕暮れの庭で手を繋いで歩いている写真。アルバムのページは少しずつ、しかし確実に埋まっていった。
しかしアルバムにはまだたくさんの真っ白なページが残っている。その空白のページの一つひとつに、二人はこれからたくさんの愛と笑顔と、そして時には涙の思い出を刻み込んでいくのだろう。
海のあのメモリージャーのように。そして健太がカメラに込めた愛のように。過去から受け継いだ愛を、未来へと繋いでいく新しい物語の始まりだった。




