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第十五章 ひまわり畑で

 秋も深まった十月のある日、沙月のお腹が大きくなり始めた頃、二人は産婦人科で赤ちゃんの性別を知らされた。


「男の子ですね。元気に育っていますよ」


 医師の言葉を聞いた時久は、診察室で思わず「やった!」と声を上げそうになって、慌てて口を押さえた。沙月はそんな時久の様子を見て、くすくすと笑った。


 帰り道、車の中で時久は興奮を隠し切れずにいた。


「男の子か……。どんな名前にしようか」


「もう考えてるの?」


 沙月が微笑ましそうに尋ねた。


「実は……もうずっと前から考えてたんだ」


 時久は少し照れくさそうに答えた。


「もし男の子だったら『太陽』という名前はどうだろうか」


「太陽……」


 沙月がその名前を口にすると、なぜかしっくりと心に馴染んだ。


「海の好きだったひまわりみたいに、いつも明るく太陽に向かって成長してほしい。そんな願いを込めて」


 その想いのこもった説明に、沙月は深く頷いた。


「素敵な名前ね。きっと海も喜んでくれるわ」


 十か月後の春、陣痛が始まった沙月を時久は慌てふためきながら病院に運んだ。出産まで十八時間の長い時間がかかったが、時久は一度も沙月の側を離れることはなかった。


 そしてついに、元気な男の子が生まれた。初めて我が子を抱いた時久は、その小さな命の重さに圧倒された。


「太陽、よく頑張って生まれてきたな」


 時久がかすれた声でそう言うと、まるでその声に反応するかのように、太陽は小さな手を動かした。


 沙月は疲れ切った顔に幸せそうな笑みを浮かべ、その光景を見つめていた。時久が真の父親になった瞬間だった。


 太陽が生まれてからの日々は、喜びと戸惑いの連続だった。夜泣きに悩まされ、オムツ替えに四苦八苦する時久の姿は、世界中を旅してきた自由な写真家の面影はもうどこにもなかった。


 しかし時久は一切の愚痴をこぼすことなく、むしろ太陽の世話を楽しんでいるようだった。夜中に泣き出した太陽を抱っこして、ひまわり畑を歩きながら子守唄を歌う時久の姿は、何とも微笑ましいものだった。


 太陽が六か月になった頃、彼は海と同じように絵を描くのが好きな子に育っていた。まだ意味のある絵は描けないものの、クレヨンを握りしめて画用紙に色を塗りたくる姿は、確かに創造性の芽生えを感じさせた。


「この子、きっと芸術的才能があるのね」


 沙月がそう言うと、時久は嬉しそうに頷いた。


「ああ。でも写真家になってほしいとは思わない。太陽には太陽らしい道を歩んでほしいんだ」


 そんな時久の言葉からは、親として子供の自主性を尊重したいという気持ちがよく伝わってきた。


 太陽が一歳になる頃には、彼は庭のひまわりの前でよくはしゃぐようになった。まだ歩けない彼を時久が抱っこして、ひまわりの花を触らせてやると、太陽は嬉しそうに声を上げて笑った。


「パパ、見て!お姉ちゃんのお花だよ!」


 太陽がそう言えるようになったのは三歳の時だった。沙月と時久は太陽に海のことを隠すことなく、優しく教えてきた。太陽にとって海は会ったことのない大切なお姉ちゃんであり、いつも見守ってくれている存在だった。


 四歳になった太陽は、時久のカメラに興味を示すようになった。


「パパ、これなあに?」


 太陽が健太のあの古いニコンF3を指差して尋ねた。


「これはね、大切な思い出を残すための魔法の箱なんだよ」


 時久はしゃがんで太陽の目線に合わせ、優しく説明した。


「魔法の箱?」


「そうだ。この箱で写真を撮ると、その時の気持ちや思い出が永遠に残るんだ」


 時久は太陽にカメラの持ち方を教え、庭のひまわりの写真を撮らせてみた。もちろん太陽一人では重すぎて持てないので、時久が支えながらの撮影だったが、太陽は真剣な表情でファインダーを覗いていた。


「パパ、できた!」


 シャッターを切った太陽は嬉しそうに飛び跳ねた。


「上手だぞ、太陽。きっとお姉ちゃんも喜んでるよ」


 時久のその言葉に、太陽はさらに嬉しそうに笑った。


 その夜、現像した太陽の初めての写真を見た沙月は驚いた。構図こそ未熟だったが、ひまわりへの愛情が確かに写真に表れていたのだ。


「この子、本当にカメラマンになるかもしれないわね」


 沙月がそう言うと、時久は複雑な表情を浮かべた。


「それも太陽が決めることだ。僕はただ、太陽が本当に好きなことを見つけられるよう手伝うだけでいい」


 太陽が六歳になったある夏の夕方、家族三人はいつものようにひまわり畑にいた。太陽は小さなスケッチブックに一生懸命何かを描いていた。


「パパ、ママ、見て!お姉ちゃんの絵描いたんだよ!」


 太陽が見せたスケッチブック。そこには拙い、しかし愛情に満ちたタッチで描かれた一人の少女の笑顔があった。それは確かに海の面影を残した、太陽なりの解釈による姉の絵だった。


「……上手だな、太陽。お姉ちゃん、きっと喜んでるぞ」


 時久は息子のその小さな頭を優しく撫でた。その瞬間、まるで海の温かい存在を感じるような風が庭を吹き抜けていった。


 沙月はそんな父と息子の姿を見つめながら静かに涙を流した。私たちの愛は確実にここに受け継がれている。海の残してくれたかけがえのない愛はこうして新しい命へと繋がり、未来へと続いていくのだ。


 時久はその瞬間をカメラに収めた。ファインダー越しに見える太陽の無邪気な笑顔と、沙月の優しい微笑み。そして彼の心の中には確かに見えていた。その二人の隣で同じように温かく微笑んでいる海の姿が。


 カシャ。シャッター音が夕暮れの空に響いた。それは永遠に続く家族の物語の、また新しい一ページの始まりだった。


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