百万回の被写体
六月。中央商店街が、また伸びた。
六月の商店街は、アーケードの下だけが涼しい。切れると急に暑い。私は帰省のたびに、その境目で足を止める癖がついた。
今度は、九十万回ではなかった。百二十万回である。
被写体は、乾物屋の隣の、和菓子屋だった。
山内さんという、八十一歳の女性である。
動画は四十秒あった。
彼女が、店の奥で餡を練っている。手つきが、驚くほど速い。
そして最後の三秒で、彼女がカメラに気づいて、少し笑う。それだけの動画だった。
私は三回見た。三回とも、最後の三秒がよかった。餡を練る手は速い。速いというより、迷いが無い。木のへらが同じ角度で同じ回数だけ返って、そのあいだ、この人は手元を見ていない。六十年やった人の手だと思った。そのあとの三秒で顔が上がって、少し笑う。三回見て、三回とも同じところで私の肩が下がった。
「よくできてるわ」
私は正直にそう思った。
「よくできてる」
ドパガキも言った。言ってから、その画面を伏せた。
「で、同意が無い」
「一つめ、視線」
「最後の三秒。……カメラに気づいて笑う」
彼は再生して、そこで止めた。
「この笑い方、知らない人に向けた笑い方だ」
「わかるの?」
「わかる」
彼は、その一コマを指した。私には、ただの笑顔にしか見えなかった。目を凝らしても、口の端の角度も、目尻の寄り方も、私の知っている笑い方と区別がつかない。客に向ける顔と、撮られているのを知っている顔が違うというのは、言われれば納得できる。納得できることと、見えることは別だった。
「客に向ける顔だ。……撮られてるって知ってる顔じゃない」
「二つめ、画角」
「カメラ、店の入口の高さにある。……百五十センチくらい」
「手持ち?」
「手持ちだ。……で、四十秒、一度も動いてない」
彼は、四十秒を通しで流した。枠が、一ミリも動かなかった。
「入口に立って、四十秒、動かずに撮ってる」
彼は、再生を止めた。
「この人、店に入ってない」
「三つめ、音」
彼は音量を上げた。
四十秒のあいだ、誰も何も喋っていなかった。餡を練る音だけがあった。
「無音だ。……四十秒、一言もない」
彼は、その音を切った。
「声をかけてない」
私たちは、山内さんに会いに行った。丸尾さんが、間に入ってくれた。
山内さんは、私たちを客だと思っていた。店に入ると、奥から出てきて、両手を前掛けで拭いてから、こちらを見た。動作に無駄が無い。八十一歳というのを、私はその場では信じられなかった。歳が見えるところを探しても、私にはわからなかった。信じられなかったのは、たぶん、動画の四十秒を先に見ていたからである。
「なんにしましょう」
「動画のことなんですけど」
私が言うと、彼女は少し首を傾げた。
「どうが?」
「知らないんです」
丸尾さんが、あとでそう言った。
「え?」
「山内さん、三年前から、少し忘れっぽくなってて」
彼は、一度咳をした。
「動画のことは、息子さんが同意してます。きちんとした手続きです」
彼は、少し声を落とした。
「でも、本人は毎日忘れます」
蜂谷灯を呼んだのは、その日の夕方だった。彼女は、二時間で来た。
「私の仕事です」
「同意は」
「息子さんから取ってます。書面です」
彼女は、その写しを出した。
「本人からは」
「取れないです。……取ろうとしました。三回行きました」
彼女は、その三回を指で作った。
「三回とも、覚えてもらえなかったです」
「じゃあ、やめればよかったでしょう」
「やめませんでした」
彼女は、その写しを鞄に戻した。
「息子さんの同意が有効だからです。法的に問題ないです」
彼女は、一度言葉を切った。
「あと」
彼女は、鞄の口を閉めた。
「あの店、来年で閉めるんです」
私は、言葉に詰まった。来年で閉める店に、いま行列ができている。その行列は、本人の知らないところで作られたものである。知らないまま、六十年やった仕事の最後の一年に、人が並んでいる。並ばないほうがよかったとは、私には言えなかった。言えないということと、正しいということは違う。違うのはわかっていて、私はそこで黙った。
「息子さんから聞きました。……後継者がいないです。山内さんが立てなくなったら終わりです」
彼女は、その数字を言った。
「百二十万回いきました。……先月、行列ができました」
彼女は、初めて少し声を落とした。
「山内さん、毎日忘れます。でも、毎日、客が来ることは驚いてます」
「幸せそうですか」
「幸せそうです。……毎日、初めて驚いてます」
ドパガキは、それまで一言も喋っていなかった。
「蜂谷」
「はい」
「あの人、自分が百二十万人に見られてるのを知らねえんだよな」
「知らないです」
「知らないまま、褒められてる」
「はい」
彼は、顔を上げた。
「それは、幸せか」
彼女は、即答した。
「幸せだと思います」
「オレもそう思う」
ドパガキが言った。
私は、驚いて彼を見た。三年見てきて、この人が誰かに同意するのを、私は数えるほどしか見ていない。この人はたいてい何も言わない。言うときは、たいてい逆のことを言う。蜂谷灯に対しては、三度会って三度とも、最後にひっくり返す側だった。その人が、正面から「そう思う」と言った。言ったうえで、そのあとに「でも」を置くのだと、私はまだ知らなかった。
「本当に思う」
彼は、その四十秒をもう一度出した。
「あの人は、たぶん、いま一番いい時期だ。……客が来て、餡を練って、毎日驚いてる」
彼は、それを止めた。
「オレが百二十万回消せって言ったら、行列が消える」
彼は、その一言を、ゆっくり言った。
「それは、あの人のためにならない」
「じゃあ」
「うん」
「私、間違ってないですよね」
彼は、初めて彼女を見た。
「間違ってない」
彼は、その画面を伏せた。
「でもな」
彼は、最後の三秒のところで指を止めた。
「あの人が決めてねえんだよ」
蜂谷灯は、答えなかった。
「息子が決めた。あんたが作った。百二十万人が見た」
彼は、三つを順に数えた。
「で、あの人は、毎日初めて驚いてる」
彼は、四つ目を数えなかった。
「幸せだ。オレもそう思う」
彼は、間を置いた。
「でも、あの四十秒を、あの人は選んでない」
私たちは、その日、それ以上何も話さなかった。蜂谷灯は、会計を済ませて、帰っていった。
去り際に、一言だけ言った。
「土場さん」
「うん」
「私、その理屈だと」
彼女は、ドアのところで振り返った。
「何もできなくなります」
「そうだな」
「それが答えですか」
「答えじゃない。……オレ、答えは持ってねえよ」
彼は、そこで一度だけ彼女のほうを見た。
「あんたが何もできなくなるのが正しいとは思ってない」
彼は、画面をポケットに入れた。
「ただ、あの人が決めてないってのは、事実だ」
和菓子屋は、翌年の三月に閉まった。山内さんは、いまも元気らしい。百二十万回の動画は、いまも残っている。
コメントは、九千件ついている。
彼女は、それを一件も読んでいない。読めないのではなく、読む機会が来ない。九千件のうちの何件かは、たぶん本当にいいことが書いてある。書いた人たちは、それが届いたと思っている。届いていない。届いていないことを、書いた側も、書かれた側も、知らないままである。




