見なかったことにする
七月十九日、依頼が来た。
七月の瀬々良木は、駅を出た瞬間に湿る。県外の七月は乾いている。同じ月なのに、こちらだけ髪が言うことを聞かない。私は帰るたびに、そのことを一度は思う。
三浦亮太を通してではなかった。本人から、直接である。母校の三年生だった。倉持さんという。
「誰が上げたか、知りたいです」
七月十六日の深夜、裏アカに写真が一枚上がった。倉持さんが、自分の部屋で泣いている写真である。
彼女は、その日、泣いていない。そう言った。
「泣いてないです。その日、普通でした。普通に帰って、普通に寝ました」
投稿は、三時間で消えた。
見た人は、四十人以上いる。スクリーンショットは、七枚出回った。
「誰が上げたか、わからないんです」
彼女は、その七枚を机に並べた。並べる手が、揃っていた。七枚を時刻順に、間隔を空けて置いていく。角を揃えてから、もう一度端を押さえる。この人はこれを何度もやっている。何度もやったから揃うようになったのだと思うと、七枚を並べる練習をした夜が何日かあったことになる。
「私の部屋なんです。……うちの中なんです」
「一つめ、時刻」
ドパガキは、七枚のスクリーンショットを並べ直した。
「投稿は、七月十六日、深夜一時四十分」
彼は、二つの時刻を書いた。
「で、消えたのが四時四十八分」
「三時間八分ね」
「三時間八分だ」
「二つめ、撮影位置」
彼は写真を拡大した。私は、その画面を横から見ていた。クロスの継ぎ目というものを、私は自分の部屋で探したことがない。言われて画面の中を探すと、たしかに縦の細い線が三本あった。三本のあいだが同じ幅であることまでは、私には測れなかった。
「壁のクロスの継ぎ目、三本。……部屋の幅が三メートル三十」
彼は、その高さを画面の上で測った。
「で、カメラの高さが百二十センチくらい」
「低いわね」
「低い。立って撮ってない」
彼は、しゃがむ真似をした。膝を、少しだけ曲げた。私はその高さを目で測った。百二十センチというのは、私の腰より少し上である。座って撮ればその高さになる。しゃがんでも、そうなる。どちらなのかは、私にはわからなかった。
「しゃがんでるか、座ってるか。……で、画角がドアの側からだ」
彼はスマホを置いた。
「部屋の中じゃない。ドアの外から撮ってる」
「三つめ、写ってるもの」
彼は、写真の隅を拡大した。机の上に、何かが置いてあった。
「これ、なんだ」
倉持さんは、それを見て、少し止まった。並べた七枚の端を、指で押さえた。押さえた指に力が入っていて、紙が少し反った。それまで、この人は七枚を事務的に扱っていた。事務的に扱えていたものが、一点だけ扱えなくなった。私は、その封筒が何なのかを聞かないことにした。彼が先に言わなくていいと言ったので、聞かないで済んだ。
「……封筒です」
「何の」
彼女は、答えなかった。
「言わなくていい」
彼は、その拡大を戻した。
「あんたしか知らねえもんだろ」
「はい」
「じゃあ、これを写した奴は」
彼は、その一点を指した。
「あんたが知られたくないものを、知ってる」
「四つめ、端末」
「この写真、縦に構えて、左手で撮ってる」
「わかるの?」
「わかる。……画面の右端に、指の影が入ってない」
彼は、他の写真を二枚出した。私は三枚を見比べた。二枚は右端に薄い影があって、三枚目だけ左にある。言われるまで、私は影があること自体に気づいていなかった。
「右手で持つと、右端に影が出る。この写真、左端に出てる」
彼は、その端を指した。
「左利きだ」
「決定打」
「三時間八分で消えてる」
「はい」
「裏アカの中の人に、確認した」
彼は、その返信を出した。一行だった。
「消したのは、中の人だ。……で、頼まれて消してる」
「誰に」
「上げた本人だ」
私は、そこで理解した。
上げた人は、上げて、三時間で怖くなって、自分で消してくれと頼んでいた。
深夜一時四十分に、倉持さんの家の中にいて、ドアの外からしゃがんで撮って、左手で構えて、封筒のことを知っている人である。四つの条件を全部満たす人間は、この家に何人もいない。何人もいないことは、四つを並べた時点で私にもわかった。わかってから、私は自分の手が止まっているのに気づいた。倉持さんの手は、止まっていなかった。止まっていないというのは、この人がもっと前から知っていたということである。
ドパガキは、スマホを置いた。そして、こう言った。
「わかった」
倉持さんが、顔を上げた。
「誰ですか」
「言わない」
私は、彼のほうを見た。彼は、いつも通りの顔をしていた。いつも通りすぎた。
「言わないって」
倉持さんが言った。
「言わない」
「なんでですか」
彼は、答えなかった。
「依頼したんですけど」
「した」
彼は、七枚をまとめて裏返した。
「金は取ってねえよ」
「そういう問題じゃないです」
「そうだな」
「なんで言わないんですか」
倉持さんは、もう一度聞いた。彼は、そこで初めて彼女を見た。そして、一言だけ言った。
「あんた、たぶん、もう知ってるだろ」
倉持さんは、何も言わなかった。十秒くらい、彼女は動かなかった。それから、鞄を持って、立ち上がった。
「ありがとうございました」
そして、帰っていった。七枚は、机に置いたままだった。
彼は、そのあと、何も説明しなかった。
「教えて」
「言わない」
「私にも?」
「あんたにも」
彼は、その七枚を揃えて、封筒に入れた。
「あんた、書くだろ」
私は、その日の夜、寮に戻って、ノートを開いた。九十四件目である。そして、手がかりを四つ書き出した。
深夜一時四十分。ドアの外から、しゃがんで。左手。封筒を知っている。
そして、上げて三時間で、自分から消してくれと頼んだ人。
私は、五分で解いた。
私は、そのページを閉じた。
そして、二日後にもう一度開いて、書きかけの四行を消した。
消しゴムで消した。四行を消すのに、十分かかった。紙が、少し薄くなった。強く押さえすぎて、下の紙にまで跡が残った。ボールペンで書いていたら消せなかった。私は三年間、この記録を鉛筆で書いている。理由は、書き間違えるからである。書き間違えたときのために鉛筆にしていたものが、この日、別の役に立った。
九十四件目の欄には、こう書いてある。
『七月十六日、深夜。倉持さんの件。解決。』
それだけである。結論の欄は、空けたままにしなかった。
書かなかった。
八月に、倉持さんから一通だけ連絡が来た。
『あの写真、私、泣いてました』
それだけだった。私は返さなかった。
九月に、もう一通来た。
『妹と、話しました』
私は、これにも返さなかった。
これが、九十四件目である。
彼が三年間で、一度だけ解かなかった事件である。正確には、解いた。言わなかっただけである。
彼は、この日、猫の話をしなかった。
「オレはなんもしてない」とも言わなかった。
私も、何も聞かなかった。
私は、その日のことを、いまも書けないでいる。九十四件目の欄は、四行ぶんだけ紙が薄い。薄いところに何が書いてあったかを、私は覚えている。覚えているものは、消しても消えない。彼は解いたことを言わず、私は解いたことを消した。二人とも、やったことは同じである。三年間で、私が彼と同じことをしたのは、たぶんこの一度だけだった。




