佐倉ひかりの弁論
五月。佐倉ひかりが、大学の懸賞論文に出した。
五月の県外は、瀬々良木より半月ぶん暖かい。同じ日に同じ服を着ていて、こちらだけ汗をかく。一年経っても、私は服を瀬々良木の気温で選んでいる。
経済学部の二年生である。テーマは自由だった。彼女が選んだのは、こうだった。
『地方の学校における匿名投稿と、数字の分配について』
「読ませてもらったわ」
四万字あった。私は三日かけて読んだ。原稿用紙にして百枚である。統計の表が十一枚あって、注が二百四十ほど付いていた。注のうち三十くらいは、私が三年間ノートに書いた日付と一致した。一致するはずである。同じ場所にいて、同じものを見ていた。ただ、この人はそれを、番号を振って並べ直していた。
内容は、学術的だった。統計があり、引用があり、注があった。そして、その半分は、彼女自身の三年間だった。
匿名で、地名も学校名も伏せてあった。だが、私にはわかった。一行目でわかった。一件目に書いてあったのは、三年前の六月の話である。
十五秒。十二万回。牛乳。
「一次審査、通ったの」
「二次は?」
「明日」
彼女は、その通知の画面を見せた。
「プレゼンよ。四十分」
私は、その日、瀬々良木に帰らずに、そちらへ行った。大学の小さい会議室である。聴衆は、六人だった。
審査員が三人。学生が三人。そして、私と、土場我輝である。
八人だった。私は、その数を二回数えた。二回とも八だった。会議室には二十人ぶんの椅子が並んでいて、十二脚が空いている。空いている椅子のほうが多い部屋で、この人は四十分喋ることになっていた。三年前、同じ人の十五秒を十二万人が見ている。十二万から八になるまでに、三年かかった。
彼女は、四十分喋った。私は、そのうち意味が取れたのは半分くらいだった。統計の用語が出てくると、私はそのたびに置いていかれる。置いていかれても、この人が何を言おうとしているかはわかった。わかったのは、四万字を三日かけて読んでいたからである。読んでいなかったら、たぶん一つもわからなかった。
一度も詰まらなかった。原稿を見なかった。手元の紙を、四十分で一度もめくらなかった。
私は、この人が三年前に弁論大会の代表だったことを、初めて実感した。
質疑は、十分あった。審査員の一人が、こう聞いた。
「これは、あなた自身の経験ですか」
「はい」
彼女は即答した。
「そうすると、客観性の担保が難しいのでは」
「難しいです」
「では、なぜ書いたのですか」
彼女は、少し黙った。手元の紙を、初めて揃えた。四十分めくらなかった紙である。揃える必要は無い。私はその手を見ていて、この人がいま何を考えているのかがわからなかった。三年見てきて、この人の考えていることが読めた例が私には一度もない。読めないまま、私はその三年ぶんを四冊のノートに書いている。
「書ける人が、他にいないからです」
結果は、二週間後に出た。落ちた。
講評は、三行だった。
『問題意識は鋭い。ただし当事者性が強く、客観的な分析としては成立していない。データの取り方に恣意性がある。』
正しい講評だと、私は思った。彼女もそう思ったらしい。
「その通りよ。……反論はないわ」
私たちは、駅前のチェーン店にいた。
六度目である。今回は、蜂谷灯はいなかった。同じ奥の角が、空いていた。
「三年前は、十二万回だったのよ」
「うん」
「今日は、六人よ」
彼女は、その二つを指で作らなかった。作る必要が無いくらい、離れていた。
「四十分喋って、六人」
ドパガキは、それまで一度も口を開いていなかった。
「佐倉」
「なに」
「三年前、オレ、あんたに言ったよな」
「言ったわね」
彼女は、初めて少し笑った。
「そっちで稼げ、でしょう」
「うん」
「稼げてないわ。……三年経って、六人よ」
彼は、しばらく黙っていた。
「三年前」
「うん」
「あんた、一位を取っても誰も何も言わないって言った」
「言ったわ」
「今日」
彼は、初めて顔を上げた。
「一人が言っただろ」
彼女は、顔を上げた。
質疑のあと、審査員の一人が、彼女に個人的に声をかけていた。私も見ていた。三分くらい話していた。
「見てたの?」
「見てた。……なんて言われたか、当ててもいいぞ」
「やめて」
彼女は、少し早口になった。
「当てないで」
「うん」
彼は、それきり黙った。
彼女は、コーヒーを飲んだ。そして、こう言った。
「『この続きを書いてください』って言われたの。……それだけよ」
彼女は、カップを置いた。
「賞は取れなかったし、数字もついてないし、六人しかいなかったわ」
彼女は、少し止まった。
「でも」
彼女は、カップの底を見た。
「十二万回のときは、誰にも言われなかったの」
私は、三年前の生徒会室を思い出した。彼女はそのとき、こう言っていた。
「返却されて、席に戻って、それで終わり。でも動画は違う。上げた瞬間に数字が動くの」
三年経って、逆になっていた。
「続き、書くの?」
「書くわ」
「何年かかる?」
「十年かしら」
「十年」
「十年で、たぶん六十人になるわ」
彼女は、その数を書いた。紙ナプキンに書いた。
「六十人」
「六十人よ。……十二万人と、六十人。どっちが多いと思う?」
私は、答えられなかった。答えられなかったので、ドパガキを見た。彼は、天井を見ていた。
「六十人だな」
彼は、その紙ナプキンのほうへ顎を向けた。
「体育館に入るぞ、それ」
「入るわね」
彼女は、六十という字を指でなぞった。
「で、十二万人は入らねえ」
彼女は、その数を書き足さなかった。
「入らないわね」
「うん」
彼は、その紙ナプキンを見た。
「でも、六十人は名前で呼べる」
佐倉ひかりは、いまも書いている。
三年前の切り抜きアカウントは、芦田さんが継いで、三代目になっている。〇.四秒は、いま〇.四五秒になっているらしい。
「うわ」
帰り道、彼が言った。
「今度は」
「猫が発表してる」
「発表?」
「机の上に立って、鳴いてる」
「聴衆は」
「別の猫が一匹」
「……」
「ちゃんと聞いてる」
彼は十六分動かなかった。私は、紙ナプキンをもらって帰った。六十という字が、いまも私の机にある。ボールペンのインクが滲んで、〇の内側が少し潰れている。紙ナプキンなので、そのうち破れると思う。破れる前に別の紙に書き写せばいいのだが、書き写すと、それはもう彼女が書いた六十ではなくなる。だから、そのままにしてある。




