静香のアカウント
四月。私は大学二年になった。
寮の部屋は南向きで、四月は昼のあいだ暖房が要らない。要らないのに、朝だけつける。つけないと起きられないからである。三年間、私は毎朝五時半に起きて見回りをしていた。その必要が無くなって一年経つのに、私はまだ五時半に目が覚める。
そして、生まれて初めて、自分のアカウントを作った。
正確には、二つ目である。
一つ目は高校のときからある。プロフィール写真は空で、投稿は一件もない。フォロワーは十一人で、全員が高校の同級生である。
二つ目は、名前も学校も伏せた。そして、書いた。
書いたのは、三年前の六月の話である。
裏アカに上がった十五秒。十二万回再生。牛乳を吹き出す女子。学校名は書かなかった。人の名前も全部変えた。
そして、こう書いた。
『三分以上ひとつのことに集中できない男が、それを解いた。』
四千二百字になった。書くのに、六時間かかった。ノートを見ながら書いたのに、六時間かかった。
なぜ書いたのかは、うまく説明できない。三冊のノートを、三年間書いてきた。
誰にも見せていない。苅田先生と、土場我輝と、三浦亮太だけが読んだ。それを、初めて外に出した。
上げるボタンを押すまでに、十分かかった。押したあと、アプリを閉じた。閉じてから、机の前に座ったまま何もしなかった。三年間、私は上げる側の人たちを見てきた。上げる前の十分がどういう十分なのかを、私は一度も想像したことがない。想像したことのないものを、その夜、私は自分でやった。指が汗ばんでいた。
投稿は、四月九日の二十二時に上げた。翌朝、私は再生数を見た。四回だった。
一週間後、十一回になった。そこで止まった。いいねは、二件だった。
私は、その数字を、たぶん三十回くらい見た。十一という数字は、開くたびに十一だった。増えないことがわかっていて、それでも開く。開くのに三秒かかって、確かめるのに一秒かかって、閉じるのにまた三秒かかる。一日に三十回やれば、二百十秒である。三分半を、私はその数字のために使っていた。
高校のとき、私は数字を数える側だった。十二万回。二百四十万回。四百七十万回。十九万回。
私はそれを数えて、ノートに書いて、それが多いか少ないかを判断していた。十一回というのは、初めて自分についた数字だった。
「四千二百字だぞ」
彼は電話でそう言った。
「うん」
「長い」
「長いわね」
「十一回は、まあまあだ」
「まあまあ?」
「初投稿で四千二百字で十一回は、悪くねえよ」
彼は、三つの数を並べた。
「二回目は八回になる。三回目は五回になる」
「減るの?」
「減る」
彼は、その三つを線でつないだ。線は、右下がりだった。
「普通は減る」
「じゃあ、どうすればいいの」
言ってから、自分が何を聞いたのかに気づいた。私は、伸ばし方を聞いていた。三年間、それを聞きに来る人を見てきたのに、である。
彼は、少し黙った。
「あんたさ」
「うん」
「三年間、書く側だったんだよな」
「うん」
「ノート三冊だ。……で、誰にも見せてない」
「うん」
「で、初めて上げた。……十一回だ」
「うん」
彼は、少し間を置いた。
「オレ、その十一回のうち一回だ」
私は、少し黙った。
「見たの?」
「見た」
「いつ」
「上げた日。……二十二時四分」
彼は、その時刻を正確に言った。
「オレ、あんたの通知オンにしてるからな」
私は、そのことを知らなかった。
「いつから」
「三年前」
「三年前?」
「あんたが一件目の投稿を上げるかもしれねえから」
彼は、一度も言い直さなかった。
「三年待った」
私は、電話を切ったあと、しばらく座っていた。三年前というのは、私がまだ一件も書いていない時期である。あのころ私はこの人をただの怠け者だと思っていて、通知を切るという発想さえ持っていなかった。切るも入れるも、こちらは考えていない。向こうは三年前に入れて、三年間そのままにしていた。
そして、あることを思い出した。三年前、彼は私にこう言った。
「押すなら毎日押せ。三年分、毎日押せ。それができないなら押すな」
「一回だけ押すのが、一番きついんだよ」
彼は、私には押していた。いいねは、二件だった。もう一件が誰なのかは、確認していない。
二回目の投稿は、五月に上げた。
三年前の七月の話である。欠席ゼロの生徒を、二週間誰も見ていなかった話だった。三千八百字になった。
再生数は、八回だった。彼の言った通りである。
三回目は、六月に上げた。四十秒で消えた投稿の話である。
五回だった。
これも、彼の言った通りだった。
三回目のあと、私は一週間、四回目を書かなかった。書かない理由は、いくらでもあった。講義があった。レポートがあった。書いても五回だという結果が、すでに出ている。理由はいくらでもあって、そのどれもが本当で、それでも本当の理由ではなかった。本当の理由は、減っていく数字を四回目も見るのが嫌だった、というだけである。
四回目は、七月に上げた。
四十七回だった。
「増えた」
「増えたな」
「なんで」
「知らね。……四回続けたからだろ」
彼は、指を三本立てて、一本足した。
「三回でやめる奴が九割だ。……四回目まで来る奴は少ない」
私は、いまも書いている。九十二件ある。全部書き終わるのに、たぶん八年かかる。再生数は、いま平均で六十回くらいである。
彼は、毎回見ている。いいねは、毎回二件である。
「もう一件、誰なのかしら」
私は一度だけ、その二件目を指してそう聞いた。
「知らね」
「調べられるでしょう」
「調べられる」
彼は、一度だけ画面から目を上げた。
「調べねえよ。……あんたが数えりゃいい」
「うわ」
「今度は」
「猫が文章書いてる」
「猫が?」
「キーボードの上を歩いてる」
「それは文章じゃないでしょう」
「四千二百字ある」
「再生数は」
彼は、その数字を読み上げた。
「十一回だ」
彼は十四分動かなかった。私は、その十一という数字を、そのとき初めて多いと思った。三年間、私は十二万や二百四十万を数えてきて、そのどれも自分の数ではなかった。十一は自分の数である。自分の数になった瞬間に、大きい小さいの物差しが変わった。物差しが変わったことのほうが、たぶんこの日の出来事だった。




