何も見ないと何も見えない
三月十六日、依頼が来た。三月の寮は、廊下の暖房が止まっている。部屋の中は暖かい。私はその暖かい部屋で、県外から母校の話を聞いている。卒業して一年になる。一年経っても、私の電話は母校からしか鳴らない。
三浦亮太からである。
「三月十二日の深夜のことなんですけど」
私は、その日付を覚えていた。覚えていたので、彼が言い終わる前に息が止まった。三月十二日の欄には、私のノートに一行だけ書いてある。土場我輝がアプリを消していた三日間の、二日目である。事件を書いた欄ではなく、事件が起きなかったほうを書いた欄だった。その欄の日付から、依頼が来ている。
「うちの二年に、田路っていう子がいて」
三浦は、そのメモを開いた。
「その子が、三月十二日の深夜二時に、消える投稿を上げたんです」
「消える投稿」
「二十四時間で消えるやつです。……で、それを見た人が四人いて。四人とも、内容が違うって言うんです」
「四人が別々のことを言ってるってこと?」
「はい」
彼は、四人ぶんを読み上げた。
「一人は『写真だった』って言います。一人は『動画だった』って。一人は『文字だけ』って」
「四人目は」
「覚えてないって言います」
「本人は」
私が聞くと、三浦は困った顔をした。
「何も言わないです。上げてないって言ってます」
「上げてないの?」
「上げたはずです。四人が見てるんで」
「一つめ、通知」
ドパガキが言った。
私は、この人がこの言葉を言うのを、いつも通り聞くつもりでいた。
「四人のうち、通知が残ってる奴はいるか」
「いないです。消える投稿の通知は、消えると一緒に消えるんで」
「スクショは」
「無いです。四人とも撮ってないです」
「二つめ、キャッシュ」
「消えても、端末に残ることがある。……四人の端末を見せてもらえるか」
三浦は、それをやった。四人とも、協力してくれた。
三日かかった。私は、そのうち二日、隣で画面を見ていた。四台ぶんのキャッシュを一つずつ開いていく作業である。開いても、たいてい何も出ない。私に見えたのは、空のフォルダと、日付だけが並んだ一覧だった。三日目に、四台とも同じ日に空になっているのがわかった。それだけである。
「無いです」
三浦は、四台ぶんの結果を並べた。
「一件も?」
「一件もです。四人とも、その日以降にキャッシュを消してます。……アプリの更新が入ったんです。三月十三日に」
彼は、その更新履歴を出した。
「更新すると、キャッシュが全部消えるんです」
「三つめ」
ドパガキは、少し黙った。
「オレが見てりゃ、残ってた」
「え?」
「三月十二日の深夜二時。……オレ、いつも起きてる時間だ」
彼は、その時刻を二回言った。
「あの日、オレはアプリを消してた」
「見てたら、どうなってたの」
「たぶん、流れてきてた」
彼は、自分のフォロー欄を出した。うちの学校の生徒が、百人以上いた。私は、その一覧を上から下まで送った。知っている名前が並んでいる。三年間、私が四百八十人の顔と名前を一致させていたあいだ、この人は同じ四百八十人のうちの百人をここに入れていた。入れていたことに、私は三年間一度も気づかなかった。
「オレ、うちの学校の生徒、けっこうフォローしてる。……深夜二時の投稿は、だいたい見てる」
彼は、その画面を伏せた。
「見てたら、覚えてる。……オレ、見たもんは覚えてる」
私は、初めて気づいた。彼は「事件を忘れる」のである。だが、見た動画は忘れない。
三年前の十七秒を、三十四行に書き起こせる人間である。九十二件の事件を忘れて、十七秒を忘れない。私は三年間、この人が忘れることのほうを不思議に思っていた。逆だった。忘れないもののほうが少なくて、その少ないものが何で、なぜそれなのかを、私は一度も考えたことがなかった。
「四つめ、四人の証言」
彼は続けた。
「四人の証言を突き合わせる。……写真、動画、文字だけ、覚えてない」
彼は、四つを並べて書いた。四つとも、違うところで違っていた。
「一致してるのは、時刻だけだ。……四人とも、二時前後だって言ってる」
「じゃあ、あったのね」
「あった」
彼は、その四行の下に線を引いた。
「内容がわからないだけだ」
彼は、五日かけた。
四人にもう一度会って、田路くん本人にも会って、周辺のアカウントを二百件見た。そして、六日目に、こう言った。
「解けない」
私は、その言葉を初めて聞いた。九十一件、この人は一度も「解けない」と言っていない。解いた件も、解かなかった件もある。断ったこともある。ただ、材料を並べてから手が届かないというのは、初めてだった。五日かけている。三分で切れる人が五日かけて、六日目にその二文字を言った。
「解けない?」
「解けない。……材料がない」
彼は、その四行の紙を裏返した。
「消える投稿は、消えたら本当に消える」
彼は、その裏に何も書かなかった。
「四人の記憶しか残ってない。……で、記憶は突き合わせても足りない」
「あなたのせいじゃないわ」
私は、その畳まれた紙を見ながら言った。言ってから、それが慰めにもなっていないと気づいた。
「そうだな」
「三日アプリを消したのは、あなたが決めたことだけど、その三日に事件が起きたのは偶然よ」
「そうだな」
彼は、一度だけこちらを見た。
「でも」
彼は、その紙を畳んだ。
「何も見ないと、何も見えねえんだよ」
田路くんは、その後、何も言わなかった。
三浦亮太が、二回聞きに行った。二回とも「上げてないです」と言われた。四人の証言も、変わらなかった。
事件は、そのまま終わった。
私は、それを九十二件目としてノートに書いた。そして、結論の欄に、初めて一言だけ書いた。
『未解決』
「あのさ」
彼は最後にそう言った。
「うん」
「オレ、これ覚えとくわ」
「え?」
「忘れねえ」
彼は、少し間を置いた。
「解けなかったやつは、たぶん忘れねえと思う」
「うわ」
「今度は」
「猫が」
彼は、そこで止めた。
「……いや、これ二十四時間で消えるやつだ」
「保存する?」
彼は、少し黙った。指が、保存の上で止まっていた。
「する」
「初めて?」
「初めて」
彼は、そこを押した。
「オレ、三年間、一回も保存したことねえんだよ」
彼は保存した。
その一件が、彼の保存フォルダの、一件目である。三年間、この人は一件も保存していない。流れてきたものを見て、流していく。残らないことを前提にした見方である。その人が、消えるものを一つだけ手元に置いた。何を保存したのかは聞かなかった。聞かなかったが、たぶん猫ではないと思っている。




