沈黙の三日間
三月十一日、土場我輝はアプリを消した。全部である。
私が知ったのは、その日の夜だった。三月の寮は、この時期に廊下の暖房だけ止まる。部屋は暖かくて、廊下が寒い。私はその廊下で電話を待っていた。部屋で待てばいいのだが、部屋で待つと待っていることになる気がした。理屈になっていないのは、自分でもわかっている。
彼から一通だけ来た。
『三日、消す』
四文字である。私は返した。
『なんで』
返事は来なかった。返事が来ないのを、私は二時間待った。
三月十二日。
彼から連絡はなかった。私は、その日、彼のアカウントを何度か開いた。開いても何も無い。何も無いことを確かめるためだけに開いている、と気づいたのは四回目である。気づいてからも、その日のうちにあと三回開いた。
私は、三浦亮太に「何かあった?」と聞いた。彼も知らなかった。佐倉ひかりに聞いた。彼女は「へえ」と言った。
「心配じゃないの?」
「心配よ」
彼女は、ページを一枚めくった。
「でも、あの人が何かを自分で決めたのは、二回目でしょう」
三月十三日。
私は、大学の講義に出て、レポートを書いて、寮に戻った。そして、自分が一日に何回スマホを見たかを数えてみた。
百四十回だった。
意識して数えたので、たぶん本当はもっと多い。起きているのが十七時間として、七分に一回である。七分に一回というのは、何かをしている途中で必ず一度手が止まる間隔だった。私は投稿をしない。フォローも十人しかいない。それでも七分に一回は見ている。見に行く先が特に無いのに、見ている。
三月十四日。彼から電話が来た。三日ぶりである。
「戻した」
「三日、何してたの」
「なんもしてない」
「本当に?」
「本当に」
彼の声が、いつもより低かった。寝起きの声だった。
「寝てた」
「どれくらい」
「一日十四時間」
私は驚いた。
「そんなに?」
「そんなにだ。……二日目からは、十六時間だ」
彼は、あくびをした。
「起きてる時間、何していいかわかんねえんだよ」
「本、読まないの」
「読めねえ。……三行で切れる」
「散歩は」
「した」
彼は、少し笑った。
「五分で戻った」
「あのさ」
「うん」
「三日目に、変なことがあった」
「何」
「時間が長い」
「一日が長い?」
「そう。……いつも一日が三時間くらいなんだよ、体感で」
彼は、言い直した。言い直すのに、五秒かかった。
「三日目、一日が一日だった」
私は、その言い方を、しばらく考えていた。考えているあいだ、彼は待っていた。彼が待つのは、珍しい。ふつうこの人は、こちらが黙ると次の話を始める。黙っている時間を、いつも自分で埋める。この日は埋めなかった。埋めるためのものを、手元から消していたからだと私はあとで思った。
「いいことじゃない?」
「よくねえ」
彼は即答した。
「なんで」
「なんもねえんだよ、その中に」
彼は、少し間を置いた。
「二十四時間あって、何もない。……で、それが明日も来る」
彼は、声を落とした。
「オレ、たぶん、三時間にしてたんだよ、わざと」
「なんで消したの」
私は、ようやく聞いた。彼は、少し黙った。
「見んのが怖くなった」
「怖い?」
「うん」
彼は、その数字を言った。
「四百三十二件だぞ。……三年前は四百三十件だった。三年増えてない。で、今週、二件増えた」
彼は、間を置いた。
「毎日確認してる。朝と夜」
彼は、その二回を数えた。
「オレ、あれ、探してるんじゃなくて、確認してるだけなんじゃねえかと思って」
「違いがあるの?」
「ある」
彼は、二つを分けて言った。
「探すのは、見つけるためにやる」
彼は、少し間を置いた。
「確認は、見つからないことを確認するためにやる」
彼は、その二つを、もう一度並べて言った。
「オレ、三年、後者をやってた」
私は、何も言えなかった。
「で、消した」
「三日でわかったのは」
「うん」
「消しても、探すのはやめてない」
彼は、また声を落とした。
「三日間、頭の中でずっと考えてた。画面がないだけだ」
彼は、二度目のあくびをした。三日ぶんの眠気が、まだ残っていた。
「だから、戻した」
「戻して、どうだった」
「四百三十四件になってた。……三日で二件増えてた」
「で」
「うん」
「見た瞬間に、時間が三時間に戻った」
事件は、なかった。
依頼もなかった。誰も泣かず、誰も何かを解かれなかった。私は、それをノートに書かなかった。
九十二件目には、しなかった。事件ではないからである。だが、書かなかったのは、たぶん別の理由だった。
代わりに、別のページに書いた。
『三月十一日から十四日、土場我輝、アプリを消す。三日で戻す。』
それだけである。
「あのさ」
彼は、電話を切る前にそう言った。
「うん」
「三日目に、一回だけ、書いた」
「書いた?」
「紙に」
「何を」
「探してるやつの内容」
彼は、その紙を広げる音をさせた。折り目が四つあるらしく、開く音が四回した。この人が紙に何かを書くのを、私は一度も見たことがない。進路調査票も白紙で出した人である。その人が、画面の無い三日目に、鉛筆で三十四行書いている。何に書いたのかは聞かなかった。たぶん、家にある紙のうち一番大きいものだったと思う。
「十七秒ぶん、全部書いた」
彼は、読み上げた。
「猫が、まな板の前にいて、右前足を上げて、下ろして、そこに米があって、その上に何か乗ってて、猫が二回押さえて、カメラが揺れて、終わる」
彼は、その紙を畳んだ。
「三十四行になった」
「覚えてるのね」
「覚えてる。……三年前から、一秒も忘れてねえ」
彼は、一度だけ声を強くした。
「オレ、九十件の事件は忘れるのに、あの十七秒は忘れねえんだよ」
電話は、そこで切れた。
私は、その夜、寮の窓を開けた。三十四行を、私は一行も知らない。三年間、彼はそれを誰にも言わなかった。読み上げられたのは、そのうちの二行ぶんくらいである。猫が、まな板の前にいて、右前足を上げて、下ろす。残りの三十二行に何が書いてあるのかを、私は聞けなかった。聞けば教えてくれたと思う。聞かなかったのは、あれがこの人の唯一の私物のように見えたからだった。
三月の風は、まだ冷たかった。私は、自分のスマホを見た。その日、九十七回だった。
三日前より、減っていた。




