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見る側の倫理

 二月。彼は、依頼を一件断った。三年近く見てきて、初めてである。


 依頼は、三浦亮太が持ってきたものだった。

 内容は、書く必要がない。よくある話だった。ある生徒が、別の生徒の投稿から何かを隠している。それを暴いてほしい、という依頼である。

「やんない」

 彼は、五秒でそう言った。

「え」

「やんない」

 三浦は、電話の向こうで戸惑っていた。戸惑っている音が、そのまま伝わってきた。

「理由、聞いていいですか」

「ない」


 私は、その二日後に瀬々良木に帰った。

 彼は、駅前の日陰にしゃがんでいた。二月なのに、である。私はこの人に上着を着ろと言ったことが三度ある。三度とも寒いと答えて、それきり何もしなかった。四度目を言わなくなったのは私が諦めたからで、諦めたことを私は成長だと思うことにしている。

「寒くないの」

「寒い」

「じゃあ動きなさいよ」

「動くと三分で切れる」


「断ったんだって」

 私が言うと、彼は画面から目を離さなかった。

「断った」

「なんで」

 彼は答えなかった。

 十分くらい、私は隣に立っていた。足の先が冷たくなった。それから、彼が言った。

「あんたのノート、貸して」


 彼は、三冊全部を読んだ。三時間かかった。

 彼が三時間、何かを読んだのを、私は初めて見た。一時間半なら、二度見ている。三時間は、初めてだった。読み方も、いつもと違った。画面を送るときの、あの一定の速さではない。何度も前に戻る。戻って、また進む。同じページを二度開くところを、私は少なくとも五回見た。紙は戻れる。戻れるものをこの人が使っているところを見るのは、それが二度目だった。


 読み終わって、彼は最初に、こう言った。

「オレ、これ全部、勝手に見てるだけだよな」


 私は、答えられなかった。

「一件目」

 彼は、そのページを開いたまま言った。

「伊丹の動画な。……オレ、あれを〇.五倍で七回見た。伊丹に許可取ってねえ」

 彼は、ページをめくった。

「二件目、相原の出席。……あれ、三浦のアカウントを勝手に調べてる」

 彼は、また一枚めくった。

「四件目、峰岸の妹。……人のスマホ、勝手に見てる」

 彼は、三冊目の最後まで飛ばした。

「八十八件目、川で助けたやつ。……あれ、蜂谷と同じことをやってる」


「それは」

 私は言いかけた。

「同じだよ」

 彼は、その三冊を重ねた。

「あいつは絵を組んだ。オレも組んだ。……やってることは同じだ」

 彼は、その上に手を置いた。

「オレのほうが正しいって、証明できねえんだよ」


 私は、何を言えばよかったのか、いまでもわからない。あの三冊は私が書いたものである。書いた人間には、そこに書いてあることを弁護する責任がある気がした。ただ、弁護する言葉というのは、たいてい書いた側にだけ都合がいい。私は八十八件を一件ずつ思い出そうとして、思い出すそばから、許可を取っていない場面ばかりが出てきた。

「あなたが解いたから、助かった人がいるわ」

 私はそう言った。言った瞬間、それが答えになっていないと気づいた。

「いるな」

 彼は、手を離さなかった。

「で、助かった人がいれば、勝手に見ていいのか」


 その日の夜、彼は佐倉ひかりに電話をかけた。私は、その場にいた。スピーカーにしていた。

「佐倉」

「土場くん。珍しいわね」

「一個聞いていい」

「どうぞ」

「三年前」

 彼は、少し間を置いた。

「オレにいろいろ当てられたとき、どう思った」


 電話の向こうは、少し静かになった。

「怖かったわ」

「そうか」

「本当に怖かった。……あの日、私、家に帰って吐いたのよ」

 私は、そのことを初めて知った。三年間、一度も聞いていなかった。あの日のあと、私はこの人と何十回も話している。教室でも、廊下でも、卒業式でも。一度も出てこなかった。出さなかったのは、たぶん、出す場所が無かったからである。三年経って、当てた本人が聞いたときに、初めて出てきた。

「そうか」

 彼は、スマホを机に置き直した。

「悪かった」

「謝らないで」

「え?」

「謝られると、私が被害者になるから」


 彼女は続けた。

「私、いま経済学部にいるの」

「うん」

「数字を勉強してるの。……あなたに『そっちで稼げ』って言われたから」

 電話の向こうで、椅子が鳴った。

「三年経ったわ。まだ稼げてないけど。……でも、あのとき当ててもらってよかったと思ってる」

「なんで」

「私が言えなかったことを、誰かが言ってくれたから」


 彼は、しばらく黙っていた。

「言われたくなかった奴もいるだろ」

「いるでしょうね」

 彼女はあっさり言った。

「いると思うわ。……で?」

「で、って」

「いるからやめるの?」

 彼女は、少し声を強くした。

「やめてもいいと思うわ。私は、あなたの倫理の話には興味がないから」

 彼女は、一度言葉を切った。

「ただ、一個だけ」

「うん」

「あなた、三年間、一度も自分から動いてないでしょう」


 私は、息を止めた。三年間、一度も自分から動いていない。言われるまで、私はそれを弱さだと思っていた。彼が動かないから、私が持っていく。六十八件のうち六十二件は私が持ち込んでいて、それを私は去年、少し腹立たしく数え直している。同じ事実が、この電話では、彼を守る根拠になっていた。

「一回だけ動いたわね」

 彼女の声は、そこだけ少しゆっくりだった。

「猫の転載の件。……あれ、依頼が無かったのよね」

「無かった」

「だから、あなたは覗いてないの」

 彼女は、その一件を言い直した。

「呼ばれて行ってるだけよ」

 彼女は、机の上で指を組んだ。

「覗きっていうのは、呼ばれてないのに行くことなの」


 彼女は、少し声を変えた。

「で、私が気になってるのは、そっちじゃないの」

「なに」

「一回だけ自分から動いた件のほう」

 彼女は、電話の向こうで何かを閉じた。

「あれ、あなた、誰にも呼ばれてなかったわね」


 電話が切れたあと、彼は長いこと動かなかった。私は、何も聞かなかった。彼は、その夜、断った依頼をやり直した。

 三浦亮太に、翌朝連絡したそうである。

『やる』

 二文字だった。


 答えは、出ていない。

 彼が正しいのかどうか、私は三冊のノートを持っていても、答えられない。

 ただ、私は、彼が三時間かけてそれを読んだことを、覚えている。


「うわ」

 その夜、彼は久しぶりにそう言った。

「今度は」

「猫が」

 彼は、そこで止めた。

「……いや」

「何」

「猫が、カメラの前で嫌がってる」

 彼は、その画面を伏せた。

「それでも撮られてる」

 彼はしばらく画面を見て、それから閉じた。

 その日は、二分だった。十二分でも、十四分でも、十九分でもない。私は二分という数を、その日ノートの隅に書いた。書いてから、これは事件の記録ではないと思って、線を引いて消した。消しても読める程度の線だった。いまも読める。


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