蜂谷とドパガキ 一
一月の終わり、一本の動画が四百万回再生された。十七秒である。
瀬々良木川の浅瀬で、流された子どもを、高校生が引き上げる。それだけの映像だった。
助けたのは、市内の高校の二年生だった。撮ったのは、川沿いに住む六十代の男性である。
子どもは無事だった。市長が表彰した。地方局が来た。そして三日後、依頼が来た。
「あれ、嘘です」
依頼人は、二十代の男性だった。
私たちは名前を書かない約束をした。彼は、その高校生と同じ町内に住んでいる。
「なんで嘘だと思うんですか」
「出来すぎてるからです」
彼は、その十七秒を指で区切ってみせた。五つに分かれた。
「十七秒に、全部入ってるんです。流されて、走って、掴んで、上げて、抱きしめる。……そんな動画、撮れます?」
「一つめ、手ブレ」
ドパガキは、十七秒の最初の一秒を見た。
「〇秒から一秒、手ブレがない」
「三脚?」
「三脚か、置いてるか。……で、普通、慌てて撮ると最初の二秒が揺れる」
彼は、他の何本かを並べた。どれも、頭が揺れていた。
「揺れてない。最初から構えてる」
「二つめ、画角」
「子どもが流されてくる位置、助ける人が走ってくる位置、引き上げる位置。……全部、画面の中に収まってる」
彼は枠を描いて、その中に三つの点を打った。
「一回もカメラが動いてない。十七秒、固定だ」
彼は、その枠を叩いた。
「動く必要がなかった。……全部が最初から画面の中にあった」
「三つめ、音」
彼は音量を上げた。三秒目に、声が入っていた。
『行くよ』
「これだ」
彼は、再生を止めた。
「助ける前に、誰かが『行くよ』って言ってる」
彼はスマホを置いた。
「助けるときに、人は『行くよ』って言わねえよ」
「で、決定打」
「撮った男性と、助けた高校生。……同じ日に、同じ場所で、別の動画を上げてる」
彼は二本を並べた。
「三時間前だ。同じ川の、同じ場所」
彼はスマホを置いた。
「二人は、知り合いだ」
私は、その組み立てを聞いていた。
四つとも、筋が通っていた。私は、その四つを疑わなかった。三年間、疑ったことがなかった。彼が四つ並べたら、そこには四つぶんの根拠があって、四つとも同じ方向を指している。私の仕事は、それをノートに書き写すことだった。書き写す側は、方向が一つしかないと思っている。方向が二つあり得ると知ったのは、この日である。
「じゃあ、演出なのね」
私が言うと、彼は答えなかった。
蜂谷灯が来たのは、その翌日である。彼女は、私たちを呼んだ。五度目だった。
「あの件、私も調べました」
彼女は、ノートパソコンを開いてから座った。
「依頼ですか」
「依頼です。……あの高校生の家族からです」
「一つめ、手ブレ」
「〇秒から一秒、揺れてない。……三脚です」
「じゃあ、構えてたってことでしょう」
「構えてました」
彼女は、あるアカウントを出した。
「あの男性、三年間、毎日そこで川を撮ってます」
投稿が、千件以上あった。全部、同じ川の、同じ場所の水位である。
「二千件近くあります。三年分です。……あの日も、いつも通り三脚を立ててました」
「二つめ、画角」
「一回もカメラが動いてない。……三年間、同じ画角だからです」
彼女は三本を並べた。去年のもの、一昨年のもの、そして事件の日のもの。
三本とも、まったく同じ構図だった。私は、三本の水面の高さだけが違うのを見た。右の岸の石が、一本目では半分出ていて、二本目では全部沈み、三本目では一つも見えない。三年間、この人は同じ場所に三脚を立てて、この石が何個見えるかを撮り続けている。撮っている理由を、この人は誰にも説明していない。説明しないまま二千件ある。
「この人、画角を変えないんです。……水位を比べるためです。変えたら比べられないんで」
「三つめ、音」
「『行くよ』。……これ、助ける人の声じゃないです」
彼女は音量を上げた。それから、左右のチャンネルを分けて流した。
「左チャンネルが強いです。カメラの左から来てます」
彼女は、画面の右端を指した。
「助ける人は、右から走ってきます。……画面を見ればわかります」
彼女は、その音をもう一度流した。
「左にいたのは、子どもの母親です」
「四つめ」
「三時間前の動画。同じ場所で二人が上げてる。……同じ町内なんです」
彼女は地図を出した。十四の点が打ってあった。
「川沿いに家が十四軒あります。二人とも、その中です」
彼女は、そのうち六つを塗った。
「三時間前の動画、十四軒のうち六軒が上げてます。……その日、川の水位が上がってたからです」
私は、両方の説明を聞いた。同じ四つの手がかりから、まったく逆の結論が出ていた。
そして、どちらも、筋が通っていた。私は、どちらが正しいのかを判断する材料を、一つも持っていなかった。手ブレが無いのは、三脚だからでも、構えていたからでもある。画角が動かないのは、水位を測るためでも、最初から全部を入れたからでもある。声が左から来るのは、母親だからでも、合図だからでもある。同じ四つが、二回とも最後まで持った。
ドパガキは、彼女の四つを最後まで聞いた。そして、こう言った。
「……面白いな」
四回目である。そして、これが最後だった。
「どっちが正しいの」
私は、二台の画面のあいだで聞いた。誰も答えなかった。
「土場さん」
「うん」
「あなたの組み立て、上手いです」
彼女は、そのノートパソコンを閉じた。
「本当に上手いです。四つとも、私も気づきました。……同じところを見てます、私たち」
「で?」
「で、私は本物だという絵を組みました」
彼女は、二本の指を立てた。
「あなたは、偽物だという絵を組みました。……同じ材料です。同じ四つです」
彼女は、少し笑った。
「あんた、見るのが上手いだけの人でしょ」
彼女は、その二本の指を一本にした。
「私は、作れる」
ドパガキは、しばらく黙っていた。それから、こう言った。
「そうだな。あんたは作れる」
彼は、自分の四つを書いた紙を出した。
「で、作れるから」
彼は顔を上げた。
「作られたことにもできるんだよな」
蜂谷灯の表情が、初めて動いた。
ほんの少しである。私が気づいたのは、たぶん、彼女をずっと見ていたからだった。目でも口でもない。肩が一度、わずかに下がった。座り方が変わったわけではない。ただ、それまで一度も動かなかったものが動いた。この人が三年かけて作ってきたのは、たぶん、そこが動かないという状態のほうである。
「……そうですね。私は、両方組めます」
彼女は、鞄を持って立った。
「今日は、本物だという依頼が来たんで」
事実として確定しているのは、一つだけである。
子どもは助かった。
演出だったのかどうかは、確定しなかった。私たちは、二人に会いに行った。高校生は、自分の手のひらを見ながらこう答えた。
「気づいたら、水に入ってました」
撮った男性は、三脚を畳みながらこう答えた。
「気づいたら、撮ってました」
二人とも、それ以上のことは言えなかった。
言えないのではなく、わからないのだと、私は思った。
その夜、私は自分のノートに書いた。三冊目である。八十八件目だった。
そして、私は初めて、結論の欄を空けたまま閉じた。
「あのさ」
帰り道、ドパガキが言った。
「うん」
「オレの四つ、間違ってたと思うか」
私は、少し考えた。歩幅を三つぶん考えた。
「間違ってはいないと思う」
「うん」
「でも」
私は、一度足を止めた。
「あなたも、絵を組んでたわ」
彼は、答えなかった。私は、止めた足をもう一度動かした。二人ぶんの足音が、ずれたまま揃わずに続いた。
彼はその日、自販機の前で止まらなかった。三年近く、この人が自販機の前で止まらなかった日を、私は数えるほどしか知らない。数えるほどしか知らないので、その日のことを私はよく覚えている。




