誰も損していない事件
一月。佐倉ひかりから連絡が来た。三年の一月で、生徒会室は足元から冷える。ドアを閉めても、廊下の空気が下から入ってくる。私はスリッパの下に上履きを履いていた。風紀委員がそれをやっていいのかどうかは、四月のプリントに書いていない。
「気持ち悪いのを見つけたの」
これで三度目である。彼女は、こういうものを見つける才能がある。
「あるアカウントが、他人の投稿を丸写ししてるの」
「盗作?」
「盗作なんだけど、変なの」
彼女は、二つの画面を並べて送ってきた。
「一字一句、写してるの。改行の位置まで」
「じゃあ盗作でしょう」
「でも」
彼女は、その下のほうを指した。
「伸びてないの」
そのアカウントは、フォロワーが六人だった。投稿は、二百三十件ある。全部、他人の投稿の丸写しだった。
そして、二百三十件全部、いいねがゼロだった。
私は、そのゼロを二百三十回ぶん見た。見終わって、意味がわからなかった。盗むというのは、盗んだものを使うことである。使わないなら、盗む意味がない。二百三十件、一件残らずゼロで、誰にも見られていない。見られていないものを一年かけて写し続ける理由を、私はその時点で一つも思いつかなかった。
「一つめ、元」
ドパガキは、二百三十件の元を辿った。
「元は、全部同じ人だ」
「一人?」
「一人だ。……市内の、五十代の人。園芸の投稿をしてる」
彼は、その投稿を一件開いた。画面を三回めくらないと、終わりまで行かなかった。四百字というのは、原稿用紙一枚である。花の名前と、咲いた日と、去年との比較が書いてある。売り込みの文章ではない。読ませようとしている文章でもない。誰に読まれなくても書く人の書き方で、それが二千件近くあった。
「文章が長い。一件で四百字くらいある」
「有名なの?」
「フォロワー百四十人だ」
「二つめ、間隔」
「元の人が上げてから、写されるまで。……平均で四時間だ」
「四時間」
「四時間だ。……で、深夜が多い」
彼は、その時刻の山を指した。私にはその山が、ただの棒の並びにしか見えなかった。深夜のところが少し高い。高いと言われれば高い。言われなければ、私はそこを平らだと思って通り過ぎたと思う。
「二十三時から二時のあいだに写してる」
「三つめ、誤字」
「二百三十件のうち、誤字があるのが百八十件だ」
「多いわね」
「多い。……で、だんだん減ってる」
彼はグラフを出した。線が、右下がりにきれいに落ちていた。私は、その線を目で追った。追っても、途中で何度か持ち上がる。きれいに落ちているように見えたのは、離れて見たときだけだった。近くで見ると、上がって、下がって、また上がっている。一年ぶんの、上がったり下がったりだった。
「一件目、誤字が十四か所。……二百三十件目、〇か所」
彼はスマホを置いた。
「上手くなってる」
私は、少し理解に時間がかかった。
「打つのが?」
「打つのが、だ」
彼は、次の画面を出した。
「で、決定打」
「二百三十件、一件も他人に見せてない」
「え?」
「ハッシュタグがゼロだ。誰もメンションしてない。……六人のフォロワーも、全員が身内だ」
彼は、その六人を並べた。名前でわかった。家族と、たぶん友達だった。
「盗んで、どこにも出してない」
写していたのは、中学一年生だった。
古賀という子である。
私たちが連絡すると、彼はすごく驚いていた。
「バレると思ってなかったです」
「なんで写してるの」
私が聞くと、彼は少し照れた。
「文章、書けるようになりたくて。……作文が苦手なんです。何も浮かばないんです」
彼は、そこで一度だけ画面を見た。
「で、上手い人の文を写せばいいのかなと思って」
「なんでこの人を選んだの」
「おすすめに出てきたんで。……花の話です。僕、花に興味ないんですけど」
彼は、その一件を開いた。
「文章がきれいだったんで」
「一年やってんだよな」
ドパガキが言った。
「一年です。毎日じゃないですけど。……誰にも見せてないです」
「なんで公開してんの」
彼は少し黙った。
「紙に書くと、続かないんで」
彼は、そこで少し声を大きくした。
「上げると、続くんです。残るんで」
「あのさ」
「はい」
「あんた、写経してんだよな」
「しゃきょう?」
「昔の坊さんがやってたやつだ。お経を写すの」
彼は、右下がりのグラフをもう一度出した。
「意味がわからなくても、写す。……写してるうちに、身体が覚える」
彼は、その線の終わりを指した。
「あんたのは、それだ」
「盗作ですよね」
「盗作だな」
「怒られますよね」
「怒られる」
彼は、そこで一度言い直した。
「で、誰も損してねえ」
彼は、二つの数字を並べた。
「元の人の数字は減ってない。あんたの数字は伸びてない。……誰も何も失ってない」
私たちは、元の人にも連絡した。五十代の男性で、園芸店を経営している人だった。彼は、笑った。
「知ってましたよ。……一年前から」
「え?」
「通知が来るんで。同じ文章がどこかに出ると、わかるんです」
「怒らないんですか」
私が聞くと、彼は首を振った。
「最初はびっくりしました。でも、見てたら、誤字がだんだん減っていくんです」
彼は、店の奥から一冊のノートを持ってきた。日付が書いてあった。表紙は色が褪せていて、角が丸くなっている。開くと、日付の下に短い数字が並んでいた。誤字の数だと、あとで知った。この人は一年間、知らない子どもの誤字の数を数えて、それをノートに付けていた。私は、自分のノートのことを少し思い出した。
「一年見てました。……一件目、ひどかったですよ。十四か所間違ってて」
「あの」
「はい」
「あなた、この一年で、文章、変わってませんか」
彼は、少し黙った。ノートを閉じた。
「……変わってます。丁寧に書くようになりました」
彼は、そのノートを棚に戻した。
「写されてると思うと、変なものは書けないんで」
ドパガキは、その話を聞いて、少し黙った。
「あのさ」
「はい」
「あんたが写してるから」
彼は、古賀くんに言った。
「あの人が上手くなってる」
古賀くんは、意味がわからない顔をした。
「一年で、両方上手くなってんだよ」
彼は、二本の線を紙に描いた。片方は右下がりで、片方は右上がりだった。
「片方は誤字が減って、片方は丁寧になってる」
彼は、その紙を置いた。
「誰も損してねえ。……二人とも得してる」
古賀くんは、いまも写している。元の人は、いまも知っていて、何も言っていない。二人は、一度も会話をしていない。
「事件じゃなかったわね」
「事件じゃなかった」
彼は、二本の線の紙を畳んだ。
「面白かった?」
彼は、少し黙った。
「面白かった」
三回目である。
「うわ」
「今度は」
「猫が猫の真似してる」
「猫が猫の?」
「別の猫の動画を見て、同じポーズしてる」
「……写してるの?」
「写してる」
彼は、二匹を並べた。
「下手だけどな」
彼は十九分動かなかった。私は、畳まれた紙をもらって帰った。二本の線は、いまも私が持っている。片方は右に下がり、片方は右に上がる。交わってはいない。交わる必要も無い。一年間、二人は一度も口をきかず、互いの名前も知らないまま、それぞれの線を引いた。ノートの結論の欄に何と書けばいいかしばらく迷って、私は「事件ではない」とだけ書いた。




