十九歳の代理店
十月。依頼人は、高校三年生だった。うちの母校の子である。三浦亮太が連れてきた。
楢崎くんという。
「バイト代が、入らないんです」
「バイト?」
「動画の編集です。一本三千円で、月に十五本くらい。……四か月やってます」
「入らないのは」
「先月と今月です。十八万円です」
彼は、その数字だけをはっきり言った。他の言葉は、全部小さかった。十月の駅前は、五時をすぎると風が変わる。私は、鞄をベンチに置いて、ノートを膝で開いていた。
「誰から受けてるの」
私が聞くと、彼は少し言いにくそうにした。
「知らない人です」
「知らない人?」
「メッセージで来て。……顔も名前も知らないです」
「振込は」
「二か月目までは、ちゃんと来てました」
彼は、その明細を出した。
「個人名でした」
「一つめ、フォーマット」
ドパガキは、楢崎くんが納品した動画を見た。六十本ある。
「これ、指示書があるだろ」
「あります」
「見せて」
彼は、そのPDFを見た。読むのに、二分かかった。
「テロップの位置、ミリ単位で指定されてる。……カット尻〇.二秒。冒頭〇.四秒でズームイン」
彼はスマホを置いた。私は、その数字に見覚えがあった。見覚えがあることに、彼より遅れて気づいた。〇.二秒と〇.四秒。去年、東雲の戸田くんが三時間かけて話していたのが、この秒数である。あのときは、切り抜きを作る人間が自分で見つけた数字だった。それが、いまはPDFの指示書に、ミリ単位の指定と並んで書いてある。
「この指示書、蜂谷のフォーマットだ」
「二つめ、納品先」
彼は、楢崎くんが納品した六十本が、どこに上がっているかを追った。
「四十二本、見つかった。……で、十一のアカウントに分散してる」
「多いわね」
「多い。……で、十一のアカウント、全部が同じ案件の別窓口だ」
彼は、十一を一つの丸に囲った。
「一つの仕事を、十一に割ってる」
「三つめ、振込名義」
彼は、二か月目までの振込記録を見た。
「個人名だ。……で、蜂谷灯じゃない」
「別の人?」
「別の人だ。……で、この名前」
彼は検索した。四分で出た。
「蜂谷の仕事を受けてる、別の下請けだ」
「で、決定打」
「楢崎。あんた、孫請けだ」
「まご?」
「クライアント → 蜂谷 → 誰か → あんた」
彼は、その四つを紙に横並びに書いた。三本目の矢印だけ、太く塗った。
「三段だ。……で、真ん中の誰かが、止めてる」
私たちは、蜂谷灯に連絡した。彼女は、三十分で来た。
駅前のチェーン店である。四度目だった。同じ奥の角だった。
「知ってます」
彼女は、最初にそう言った。
「え」
「その件、知ってます。先月から止まってるのも知ってます」
彼女は、鞄からノートパソコンを出した。
「私は、その人にはちゃんと払ってます。八月ぶんも、九月ぶんも。……記録あります。見ますか」
私は、記録を見た。
彼女は、たしかに払っていた。日付も、金額も、合っていた。
「じゃあ、その人が」
「その人が止めてます」
「なんで放置してるんですか」
「私の契約相手は、その人だからです」
彼女は、画面をこちらに向けたままにした。
「その人が誰に再委託してるかは、私の管轄外です」
「知ってるのに?」
「知ってます」
彼女は、初めて画面を閉じた。
「知ってますけど、私が口を出すと、契約違反になります。……私は、悪いことをしてません」
ドパガキは、それまで一言も喋っていなかった。彼は、顔を上げた。
「蜂谷」
「はい」
「あんた、十六から仕事してるって言ったよな」
「言いました」
「そのころ、あんた、払ってもらえたか」
彼女は、答えなかった。手が、パソコンの上で止まっていた。
長い沈黙があった。店の音楽が、一曲分終わった。次の曲が始まるまでの二秒くらい、店の中が本当に静かになった。この人が黙るのを、私は初めて見た。二秒を、私は数えていた。三度会って、三度とも、聞かれたことに間を置かずに答える人だった。答えないという答え方があるのを、この人はたぶん、久しぶりに使っている。
「……三回、飛ばれました。合計で、四十万くらいです」
「取り返した?」
「取り返せてないです。……契約書、無かったんで」
「うん」
ドパガキは、さっきの紙を出した。
「で、いま、あんたは払う側だ」
「はい」
「で、あんたの下で、同じことが起きてる」
彼女は、コップを見ていた。
「あんた、知ってるよな」
「知ってます」
「で、悪いことしてないよな」
「してないです」
彼は、スマホを置いた。
「知ってて、悪いことしてないんだよな」
蜂谷灯は、そのあと三十秒くらい黙っていた。それから、パソコンを閉じる手を止めて、こう言った。
「私が動くと、その人との契約が切れます」
「切れるな」
「その人、私の案件の四割を回してます」
「そうか」
「切れると、私の下にいる、他の八人が困ります」
彼女は、指を八本出した。この人が指で数えるのを、私は初めて見た。数字を暗記していて、指を使う必要のない人である。四百七十万も八十万も、指を折らずに言う。その人が、八という一桁を、両手を開いて示した。八人が誰なのかを、この人はたぶん顔で覚えている。顔で覚えているものは、指のほうが早い。
「八人の生活が止まります」
「じゃあ、どうすんの」
彼女は、しばらく答えなかった。そして、こう言った。
「立て替えます」
「え?」
「十八万、私が払います。その人には請求しません」
彼女は、パソコンをもう一度開いた。
「契約は切りません。……それが一番、被害が少ないです」
十八万円は、三日後に振り込まれた。蜂谷灯の名義だった。楢崎くんは、いまもその仕事をしている。
真ん中の人は、いまもそこにいる。
「解決したの?」
私は帰り道に聞いた。
「してねえよ」
「金は入ったでしょう」
「入った」
彼は、歩幅を変えずに続けた。
「で、来月も同じことが起きる」
彼は、一度だけこちらを見た。
「あいつ、毎月立て替えるつもりだぞ、たぶん」
「なんで契約を切らないのかしら」
「切ったら、八人が困るからだろ」
「本当に?」
彼は少し黙った。四歩ぶんくらいである。
「たぶん、それもある」
「うん」
「でもな」
彼は、そこで足を止めた。
「あいつ、契約を切ったことがないんだよ」
彼は、指を三本立てた。
「三年で、一回も」
彼は自販機の前で止まった。
「切られた側の記憶が、消えてねえんだ」
「うわ」
「今度は」
「猫が働いてる」
「猫が?」
「駅長だ。帽子かぶってる」
「……給料は」
「猫缶だ」
彼は、その画面をこちらに向けた。
「ちゃんと払われてる」
彼は十二分動かなかった。私は、四つの箱と三本の矢印の紙を、まだ鞄に入れたままだった。真ん中の箱に何を書けばいいのかが、私にはわからない。クライアント、蜂谷、誰か、楢崎。真ん中の誰かの名前を、私たちは知っている。知っていて、何もしていない。何もしないことを選んだのは蜂谷灯で、私たちはそれを見ていただけである。見ていただけの側がその紙を持って帰るのは、少し卑怯な気がした。




