蜂谷の教室
八月。私は夏休みで、瀬々良木に帰っていた。蜂谷灯は、駅前のチェーン店で私たちを待っていた。
彼女のほうから呼んだ。三度目である。席は、いつも同じ奥の角だった。
「仕事の話です」
彼女は最初にそう言った。
「断ります」
「まだ何も言ってないですよ」
「言われても断ります」
彼女は、少し笑った。カップを両手で持っていた。持ち方だけは、年相応に見えた。
「わかりました。……じゃあ、雑談しましょう」
「土場さん」
「うん」
「あなた、何もしてないですよね」
彼は答えなかった。
「進学もしてない、働いてもない。一日八時間見てる。……四か月そうですよね」
「そうだな」
「もったいないです」
彼女は、カップを置いた。
「あなたの目、たぶん、この県で一番いいです」
「あんたの学校、どこだったの」
ドパガキが、初めて口を開いた。
「東雲です。二年で辞めました。三年前です」
「なんで」
「行く意味がわからなかったんで。……そのころ、もう仕事してました」
「一つめ、初期アカウント」
その夜、彼は調べた。
私は寮に戻る前だったので、彼の家の玄関先に座って、それを聞いていた。八月の夜で、蚊が多かった。彼は一度も払わなかった。私は三回払った。三回目に、彼の腕にも同じ蚊が止まっているのが見えた。彼はそれを見てから、また画面に戻った。刺されているのがわかっていて、払わない。この人は痛みや痒みの優先順位が私と違う。二年見てきて、そこだけはまだ慣れない。
「蜂谷灯、三年前まで別のアカウントがある」
「消してないの?」
「消してる。……で、一本だけ残ってる」
「一本?」
「削除に失敗してるやつだ。……たまにある。アプリが消したことになってるのに、直リンクだと開ける」
その一本は、三年前のものだった。
二分四十秒ある。長い。いまの縦動画としては、長すぎる。内容は、東雲高校の教室だった。
夕方の、誰もいない教室である。
窓から光が入っている。机が並んでいる。黒板に、消し忘れた文字が残っている。それを、ただ映しているだけの動画だった。
音楽もない。テロップもない。カットも一つもない。
二分四十秒、カメラが動かない。
私は、それを最後まで見た。見ているあいだ、光の位置が少しだけ動いた。それだけが起きたことだった。机の上に、誰かの忘れた筆箱が一つある。窓の外で、遠くを走る車の音が二回する。黒板の消し忘れた文字は、たぶん数式で、途中で切れていた。二分四十秒というのは、耐えられる長さではない。それでも私は最後まで見て、見終わってから、もう一度はじめから見たくなった。
再生数は、十一回だった。
「二つめ、編集」
ドパガキは、その動画をもう一度再生した。
「これ、編集ゼロだ。一本撮りだ。……で、いまのあいつの編集と、正反対だ」
「正反対?」
「いまのあいつ、〇.三秒でカット割ってる。離脱直前で切る。……これは、二分四十秒切ってない」
彼は、二本を並べて同時に流した。片方は、目が痛くなるほど動いた。片方は、動かなかった。
「三年前のあいつは、切れなかったんだよ」
「三つめ、その後」
彼は、蜂谷灯のいまのアカウントを開いた。
「三年前の十月に、新しいアカウントを作ってる。……で、一本目が十七秒だ」
「短い」
「短い。……で、二本目が十四秒。三本目が十二秒」
彼は、その三つの数を並べて書いた。
「どんどん短くなってる」
彼はスマホを置いた。
「三年前の十月に、あいつは切ることにしたんだよ」
翌日、私たちはもう一度会った。
ドパガキが呼んだ。彼が誰かを呼び出すのを、私は初めて見た。彼は、その二分四十秒の動画を、彼女の前で再生した。
蜂谷灯は、それを最後まで見た。
一度も画面から目を離さなかった。カップにも手を伸ばさなかった。再生が終わって、彼女は言った。
「残ってたんですね」
「残ってた」
「十一回でした」
彼女は、初めてカップに触った。
「知ってます。十一回のうち、七回が自分です」
「四回か」
「四回です」
彼女は、その数を指で作らなかった。作る必要が無いくらい、覚えていた。十一から七を引いて四という計算を、この人は三年前にやっている。やったあと、たぶん毎日その四を見ていた。三日待った、四日待った、と言うときの言い方が、日数を数えていた人の言い方だった。
「四人が見ました。……誰も何も言わなかったです」
彼女はコップを持ち上げた。
「三日待ちました。四日待ちました。……一週間で、消しました」
「で、切ることにしたのか」
「はい」
彼女は、初めて背筋を伸ばした。
「二分四十秒を見る人はいない。十七秒なら見る。十二秒ならもっと見る。……それだけの話です」
彼女は、画面を伏せた。
「私、あれを作りたかったんです。三年前」
彼女はカップを置いた。
「でも、作りたいものを作ると、四回なんです」
私は、何も言えなかった。
「じゃあ、いまのは」
「作りたいものじゃないです」
彼女は即答した。
「でも、四百七十万回です」
ドパガキは、天井を見ていた。
「あんたさ」
「はい」
「三年前の十一回、覚えてんだよな」
「覚えてます」
「昨日の四百七十万回は」
「覚えてます」
彼女は、少しだけ声を落とした。
「全部覚えてます」
彼女は、指を一本も折らずに続けた。
「一本も忘れてないです。三年前の十一回も、去年の八十万回も、先週の五十本も」
「オレ、忘れるんだよ」
「知ってます。……六十八件、全部忘れたって聞きました」
「誰から」
「調べました」
彼女は、初めて目を伏せた。
「……羨ましいです」
私は、そこで初めて、この人を怖いと思った。
それまでは、ただ「悪くない人」だと思っていた。怖いと思った瞬間に、私はこの人が十九歳であることを思い出した。十九歳の顔が、そのときだけ見えなくなった。
「羨ましいって」
「羨ましいです」
彼女は、カップの底を見ていた。
「忘れられたら、降りられるじゃないですか」
彼女は、そのあと仕事の話を一度もしなかった。会計を済ませて、私たちの分も払って、帰っていった。
去り際に、一言だけ言った。
「土場さん」
「うん」
「あの動画、消しておいてください」
彼女は、ドアのところで一度だけ振り返った。
「消し方、わかりますよね」
彼は、消さなかった。
「消さねえの?」
私が聞くと、彼は首を振った。
「消さない」
「頼まれたのに」
「頼まれた」
彼は、その動画をもう一度開いた。
「でも、あれ、四回見た奴がいるんだよ」
彼は、再生ボタンの上で指を止めた。
「四人のことは、あいつが決めることじゃねえ」
「うわ」
「今度は」
「猫が二分四十秒寝てる」
「切ってないの?」
「切ってない。カットゼロだ」
「再生数は」
「十九回」
彼はそれを、最後まで見た。
そして、二回目を再生した。二分四十秒を二回である。二回目のあいだ、私は指を数えていた。この人が同じものを二回見るところを、私は二年半で一度も見ていない。三秒で飛ばす側だと本人が言い、実際にそうだった。その人が、切っていない二分四十秒を二度見ている。私は何も言わずに、隣で二回目を最後まで一緒に見た。




