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訂正は届かない

 翌日、古谷さんが泣いていた。

 電話の向こうで、である。泣きながら、数字を正確に言った。そこが、私にはこたえた。七万と千七百という数を、この人は泣きながら一度も言い間違えなかった。泣いている人は、ふつう数字を落とす。落とさないというのは、その二つを何度も見ているということである。何度見ても、片方は片方の四十一分の一だった。

「千七百回でした。七万回に対して、千七百回でした」


「訂正、二回出したんです」

「二回?」

「昨日と、今朝と。……二回目は、四百回でした」

「減ってるの?」

「減ってます。……なんで減るんですか」


「一つめ、リーチ比」

 ドパガキは、二つの数字を並べた。

「元の誤情報、七万。訂正、千七百。……四十一分の一だ」

「二回目は四百」

「百七十五分の一だ」

 彼は、その二つを並べて書いた。

「で、これは普通だ」


「普通?」

「普通だよ」

 彼は、他の事例をいくつか出した。どれも、似た比になっていた。寮の廊下は暖房が止まっていて、通話をしていると耳のほうが先に冷える。私は、耳を替えながら聞いていた。

「誤情報と訂正のリーチ比は、だいたい二十分の一から百分の一のあいだだ。……四十一分の一は、むしろ良いほうだ」

「なんでそんなに違うの」

「二つめだ」


「二つめ、構造」

「誤情報は、新しい。訂正は、新しくない」

「え?」

「誤情報が回るのは、それが『初めて聞く話』だからだ。……で、訂正は、もう聞いた話の続きだ」

 彼は、その二つを紙の上下に書いた。上に新しい、下に古い、と書いた。

「機械は新しいものを配る。人間も、新しいものを見る。……訂正は、構造的に負ける」


「三つめ、樹形図」

 彼は二つの拡散経路を並べて描いた。誤情報のほうは、大きな木になっていた。

 訂正のほうは、幹が三本、枝が七本だった。私は、その二枚を見比べた。見比べる必要も無かった。紙の埋まり方が、まったく違った。

「見ろ。訂正は、二段目で止まってる」

 彼は、その二段目を指した。

「誤情報は、四段目まで行ってる。……回した人間が、また回されてる」

「訂正は?」

「訂正を回した人間を、誰も回してない」

 彼は、その紙を置いた。

「訂正は、誰も読みたくねえんだよ」


「決定打」

「七万人のうち、訂正を見た人間が千七百人。……で、そのうち、元の誤情報も見てた人間は何人だと思う」

 私は答えられなかった。

「三百二十人だ」

「え?」

「千七百人のうち、千三百八十人は、元の話を知らない」

 彼はスマホを置いた。

「学校のアカウントをフォローしてる人が、いきなり訂正だけ見てる」

 彼は、二つの円を描いて、重なりを塗った。重なりは、ほとんど無かった。

「訂正が届いてるのは、誤解してない人ばっかりだ」


 古谷さんは、しばらく黙っていた。泣き声は止まっていた。

「じゃあ、意味ないんですか」

「意味あるだろ」

「え」

「記録として残る。あとで検索した奴が読む。……三年後に効く」

 彼は、少し間を置いた。

「でも、今日は効かない」


「じゃあ、今日はどうすれば」

 ドパガキは、しばらく黙っていた。

「あのさ」

「はい」

「謝罪とか訂正ってのは、本人が楽になるためにやるもんだ」

 彼は、二つの円の紙を裏返した。

「出したら、やることはやったってことになる。……で、そこで終わる」

「はい」

「でも、あんたが届けたいなら」

 彼は、その裏に大きく一つ数字を書いた。

「四十倍やれ」


「四十倍?」

「七万に届けたいなら、千七百の四十倍だ。……四十回出せ」

「四十回?」

「一日一回、四十日だ。毎回、書き方を変えろ」

 彼は、その数字を丸で囲った。

「同じ文面を四十回出したら、機械が弾く。……四十通りの訂正を書け」


 古谷さんは、それをやった。

 私は、四十日というのが冗談だと思っていた。本気かどうかが、この人についてはいつも私にはわからない。彼が本気で言っているのは知っていたが、それでも、実行する人がいるとは思っていなかった。

 四十日間、毎日一件ずつ、違う書き方で訂正を出した。三日目までは、四百回だった。十日目に、千二百回になった。

 二十三日目に、九千回になった。三十一日目に、二万四千回になった。そして四十日目、最後の一件は、三万八千回だった。

 私は、その四十件を全部読んだ。四十件を、私は二度数えた。同じことを、四十通りの言い方で書いてあった。三十件目あたりから、文章が短くなっていた。短いほうが、届いていた。一件目は百二十文字あって、四十件目は三十一文字だった。四十日かけて、この人は自分の文章から言い訳を削っていったのだと思う。最初のうちは「誤解を招く表現が」という書き方をしていて、後半は「禁止していません」だけになる。同じことを四十回書いた人にしか、この削り方はできない。


 合計すると、十九万回になった。誤情報の七万回を、越えていた。


「越えたわね」

「越えたな」

「四十日かかったけど」

「四十日かかった」

 彼は、二つの数字を並べた。四と、四十である。

「で、誤情報のほうは四日だった」


 私は、その差をずっと考えている。四日と、四十日である。

 十倍である。誤情報は四日で七万に届き、訂正は四十日で十九万に届いた。数字だけを見れば、訂正のほうが多い。だが、その四十日のあいだ、七万人はずっと誤解したままだった。

 そして、四十日毎日書き続けられる人間は、そんなにいない。


「古谷さん、すごいわね」

「すごいな。……あんな二年生、そういねえよ」

 彼は少し黙った。

「でも」

 彼は、一度だけ言い直した。

「四十日ぶんの誤情報が、そのあいだにも増えてる」


「うわ」

「今度は」

「猫が」

 彼はそこで止めた。

「……いや、これ誤情報だな」

「わかるの?」

「わかる。本文読んだら逆のこと書いてある」

「訂正する?」

 彼は少し黙った。

「しねえよ。……オレ、四十日はやんねえもん」


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