バズは事故じゃない
四月。私は県外の大学の寮にいた。瀬々良木からは、電車で二時間である。
初めての一人暮らしで、初めての一人の部屋で、私は、思っていたより静かだった。静かなのが嫌だったのではない。静かなのに慣れるのが、思っていたより早かった。それが少し嫌だった。
土場我輝から連絡が来たのは、四月十九日だった。卒業以来、初めてである。
『三浦が困ってる』
四文字プラス三文字だった。
三浦亮太は、三年生になっていた。
生徒会と風紀委員を兼任している。私のノートを引き継いでいる。彼のクラスメイトの動画が、バズっていた。
「四百七十万回です」
彼は通話でそう言った。声の後ろで、生徒会室のドアが閉まる音がした。私が二年間聞いていた音である。あのドアは、閉めるときに一度戻る。建て付けが悪くて、押し込んでから半分だけ跳ね返って、それからかちりと落ちる。三年間、誰も直さなかった。私はその二段の音を、二時間離れた寮の部屋で聞いていた。
「本人は」
「学校に来てないです」
その動画は、二十二秒だった。
三年A組の永瀬という生徒が、廊下で、友達の物真似をしている。それだけである。
「同意は」
「してないです。撮ったのは友達で、その友達も、上げてないんです」
「じゃあ、誰が」
「わかんないです。……知らないアカウントです」
「一つめ、初動」
ドパガキが言った。
私は寮の部屋で、通話をスピーカーにしていた。三人での通話である。彼の声は、二時間ぶん遠かった。
「投稿は四月十四日、十九時三分。……で、最初の四十分で六千回だ」
「多いんですか」
三浦が聞いた。
「フォロワー九十人のアカウントだぞ。……ありえねえ」
「二つめ、最初の三アカウント」
「十九時六分、八分、十一分に、三つのアカウントが回してる。……で、三つとも登録が三か月以内だ」
「新しいってこと?」
「新しい。……で、フォロワーが四千、二万、十一万だ」
「階段」
「階段だ」
私は、その三つの数を紙に書いて、去年の秋のものと見比べた。
「去年、商店街でやったのと同じ形だな」
「三つめ、コメント」
彼はコメント欄を開いた。
「最初の百件を見る。……語彙の分布が変だ」
「変?」
「人間のコメント欄は、語彙がばらける。……で、これ、最初の百件だけ、やたら綺麗だ」
私も同じ画面を開いた。百件を最後まで読んだ。読んでから、彼の言う「綺麗」がわかった。どれも同じ位置で改行されていて、引っかかるところが一つも無い。百件が、私には同じ一件に見えた。
「誤字が一件もない。絵文字の使い方が揃ってる。……書き慣れてる人間が書いてる」
「で、決定打」
「この動画、十四秒目で切ってある」
「え?」
「元は三十秒くらいあったはずだ。……で、十四秒目に、間がある」
「意味があるの」
「ある。永瀬が笑ってない」
彼は、その三秒を三回繰り返して再生した。三回とも、同じ場所で止まった。
「物真似のあと、本人が笑うはずのタイミングで、笑ってない。……で、そこで切ってる」
彼は、再生を止めた。
「笑ってない部分を残して、笑ってる部分を切ってる」
「わざと?」
「わざとだ」
彼は、少しだけ間を置いた。
「そのほうが伸びる。……ちょっとかわいそうなほうが伸びるんだよ」
蜂谷灯に会ったのは、その一週間後だった。私が瀬々良木に帰った日である。彼女のほうから来た。
駅前のロータリーだった。去年の二月に、私たちが走って来た場所である。
彼女は、私たちを待っていた。十九歳で、私より一つ上のはずだった。背は低くて、髪が短くて、服装は地味だった。地味であることが、選ばれた地味さに見えた。
「土場我輝さん」
彼女は、順に名前を呼んだ。
「鎮目静香さん」
彼女は、私の名前も知っていた。
「先に言っておきますね」
彼女は、椅子に座る前にそう言った。
「私、悪いことしてないですよ」
「永瀬くんの件」
私が言うと、彼女はうなずいた。
「私が伸ばしました」
彼女はあっさり認めた。手元のスマホを、伏せもしなかった。
「同意は」
「取ってないです。……でも、撮影者から素材を買ってます。三万円で」
彼女は、その取引の画面を出した。
「その人は権利を持ってました。取引は成立してます」
「本人の同意は」
「法律上、要らないケースです。……調べました。弁護士にも聞きました」
私は、言葉に詰まった。言い返す言葉を、頭の中で三つ組み立てて、三つとも成立しなかった。一つめは同意の話で、権利は撮影者にあると先に言われている。二つめは気持ちの話で、それは規約の外にある。三つめは、あなたは人としてどうなのかという話で、これを口に出したらこちらが負けるのがわかった。負けるというより、話が終わってしまう。
「クライアントは、地方の企業です」
彼女は続けた。
「『若い人が使いたくなる街のイメージを作りたい』って依頼です。予算は八十万」
彼女は、初めて数字を書かなかった。暗記していた。
「四百七十万回いきました。費用対効果は良かったと思います」
ドパガキは、そのあいだ一度も口を開かなかった。彼はスマホを縦にして、いつもの姿勢で座っていた。
蜂谷灯は、それを見ていた。彼女は、彼が画面を見ていることを、失礼だと思っていないようだった。
「土場さん」
「うん」
「あなた、一日何時間見てますか」
「八時間」
彼は即答した。
「私、十時間です。……三年前からです」
彼は、初めて顔を上げた。
「見て、どうすんの」
「作ります」
彼女は、少しだけ前に出た。
「見た本数だけ、作れるものが増えるんです。……何が伸びるか、見た瞬間にわかるでしょう」
「わかる」
「じゃあ、同じですね」
「同じじゃねえよ」
「同じですよ」
彼女は、初めて少し笑った。笑い方が、失敗していなかった。私はこの二年間、失敗した笑い方ばかり見てきた。
「あなたは見抜くだけ。私は作れる」
永瀬くんは、五月に学校に戻った。動画は消えなかった。消す方法がなかったからである。
四百七十万回は、いまも四百七十万回のままである。
蜂谷灯は、報酬を受け取った。彼女は何の罰も受けていない。法律にも、規約にも、触れていなかったからである。
「あの人、悪くないのよね」
私は電話で言った。寮の窓を開けていた。四月の夜は、まだ寒かった。
「悪くねえよ」
「じゃあ、何なの」
彼は、しばらく黙っていた。電話の向こうで、自販機の音がした。
「あのさ」
「うん」
「十四秒目で切ってんだよ」
彼は、一度言葉を切った。
「あそこで切ると、永瀬が笑ってないように見える。……で、それを知ってて切ってる」
「……」
「悪いことはしてない。法律にも触れてない。……でも、あいつは、あの十四秒目を知ってる」
「うわ」
「今度は」
「猫が」
彼はそこで止まった。
「……いや、いい」
「何」
「猫が伸びてる」
「かわいいから?」
「かわいくない」
彼は、少し黙った。
「ちょっとかわいそうなんだよ、この猫」
彼はその日、動画を閉じた。私は、窓を閉めた。四月の夜に窓を閉めると、部屋の静けさが戻ってくる。この静けさに私は一週間で慣れた。慣れたことを、私はまだ誰にも言っていない。二時間離れた場所で、同じ動画を同じ夜に閉じた人がいる。それだけは、その夜のあいだ、確かなことだった。




