進路調査票
三月。事件はなかった。三年生は、もう授業がない。学校に来る理由もない。
それでも私は毎日行っていた。風紀委員の引き継ぎがあったからである。引き継ぐ相手が誰になるのかは、その時点ではまだわからなかった。
そして、土場我輝も毎日来ていた。理由は、たぶん、家だと親が話しかけてくるからである。
「進路調査票、出してないでしょう」
三月四日、苅田先生が図書室に来た。
ドパガキはエアコンの下の席にいた。いつもの場所である。三月の図書室は寒くて、その席だけが暖かい。
「出してない」
彼はあっさり言った。
「三年間で、一枚も出してないわね」
「うん」
「何か理由がある?」
「ない」
苅田先生は、向かいの席に座った。
私は少し離れたところで、引き継ぎの書類を書いていた。書きながら、聞いていた。ペンは動いていたが、字は途中から曲がっていた。
「進学、しないの」
「金がない」
「奨学金がある」
「返せねえ」
「働くの?」
「働けねえと思う」
彼は画面から目を離さなかった。
「オレ、三分で集中切れるんだよ。……バイトも三回クビになってる」
苅田先生は、しばらく黙っていた。
「土場」
「うん」
「あなた、この二年で、何をしたの」
「してねえよ」
彼は即答した。
「なんもしてない」
「何もしてないわけないでしょう」
「してねえ」
彼は、そこで初めて画面を伏せた。
「動画見てた」
先生は、紙を一枚出した。
「書きなさい」
「何を」
「この二年で、やったことを。……三つでいいわ」
彼はペンを持たなかった。紙の上に、手も置かなかった。
「書けねえよ」
「なんで」
「覚えてねえもん」
私は、そこで手を止めた。
止めてから、たぶん十秒くらい、自分が何をしようとしているのかわからなかった。そして、鞄からノートを出した。
二冊ある。二年分である。表紙が、二冊とも同じ色だった。二冊目を買うとき、同じ色を探したのを覚えている。駅前の文具店に無くて、隣の市まで行った。同じ色でなければならない理由は、そのときも無かったし、いまも無い。ただ、二冊目が別の色だったら、私は二冊目でやめていたような気がする。
「先生」
私は、それを机に置いた。
「これ、書いてあります」
風紀委員の記録である。
私は毎回、書いていた。日付と、依頼人と、内容と、結果を。
誰にも頼まれていない。委員会の書式にも、そんな項目はない。
書いておかないと落ち着かなかった、というだけである。一件目を書いたのは、彼が体育館裏で財布の話をした日の夜だった。あの日、家に帰ってから、私は自分が何を見たのかを説明できなかった。説明できないものを、順番だけでも並べておこうと思った。並べておけば、いつか説明できるようになると思っていた。二年経って、まだ説明できていない。
「六十七件あります。……二年で、六十七件です」
苅田先生は、そのノートを最初から読んだ。三十分かかった。
読んでいるあいだ、ドパガキは一度も顔を上げなかった。私も、書類に一文字も書けなかった。ページをめくる音だけが、四十七回聞こえた。私は、それを数えていた。
「六十七件」
「はい」
「これ、全部この子が?」
「はい」
「……鎮目さん」
先生は顔を上げた。眼鏡を、一度外して掛け直した。
「あなた、これ、二年間ずっと書いてたの」
「はい」
「誰に見せるために」
私は、少し答えに詰まった。
「……誰にも見せてません」
ドパガキが、そこで初めて顔を上げた。彼はノートを見た。そして、一ページ目を開いた。
「これ、オレがやったの?」
「あなたがやったのよ」
「覚えてねえ」
「知ってる」
彼は、二ページ目をめくった。三ページ目をめくった。
十分くらいめくって、それから閉じた。閉じるときに、表紙を一度撫でた。撫でた指がどこで止まったのかは、私には見えなかった。撫でるというより、埃を払うような手つきだった。この人が紙のものに触るのを、私はほとんど見たことがない。教科書も配布物も、机の中に入れたまま学期が終わる。その手が、二冊の表紙の上で一度だけ止まっていた。
「六十七件か」
「六十七件よ」
「……多いな」
「多いわね」
苅田先生は、進路調査票を書かなかった。代わりに、こう言った。
「土場。あなた、これ、仕事にはならないわよ」
「知ってる」
「誰も雇わないと思う」
「知ってる」
「でも」
彼女は、ノートの表紙に手を置いた。
「やってたことは、事実として残るから」
彼女は立ち上がった。
「進路調査票、白紙で出しなさい。それでいいわ」
「白紙でいいの?」
「よくないけど、いいわ」
彼女は、ドアのところで一度振り返った。
「私、あなたの担任を二年やったから、あなたが白紙なのは知ってる」
先生が出ていったあと、私たちは黙っていた。図書室の時計の音が、いつもより大きかった。
「六十七件、書いてたのかよ」
「書いてた」
「なんで」
「わからない」
私は、ノートを鞄に戻した。戻してから、答えた。
「あなたが忘れるから、じゃないと思う。……たぶん、私が忘れたくなかっただけ」
彼は何も言わなかった。しばらくして、こう言った。
「そのノート、あんたのだからな」
「わかってる」
「オレのじゃない」
「わかってる」
彼は、また画面を縦にした。
「オレはなんもしてない」
「そうね」
「ほんとになんもしてない」
「そうね」
「なんで笑ってんだよ」
私は、その日、笑っていなかった。だが、彼にはそう見えたらしい。
「うわ」
「今度は」
「猫が進路調査票の上で寝てる」
「猫に進路はないでしょう」
「ある」
彼は、画面を私のほうに傾けた。
「保護猫だ。これから決まる」
彼は十七分動かなかった。私は鞄の中の二冊を、上から手で押さえていた。押さえる必要は無かった。ただ、あの三十分のあいだに、そのノートが私だけのものではなくなった気がしていた。悪い気ではなかった。六十七件のうち六十七件とも、私が一人で見たわけではない。それは最初から、そういうものだった。
三月八日、彼は進路調査票を白紙で出した。備考欄に、一行だけ書いてあったらしい。苅田先生が、あとで教えてくれた。
『とりあえず見ます』




