祖母のスマホ
三月。三年D組の寒河江さんが、生徒会室に来た。
卒業まで、あと一週間だった。彼女はもう、制服のリボンを緩めていなかった。逆である。三年間で一番きちんと締めていた。
「祖母が、変なことを信じてるんです」
内容は書かない。
健康に関する話と、ある食べ物に関する話と、ある人たちに関する話だった。全部、事実ではなかった。書かないのは、書けば同じものを一件増やすことになるからである。この記録は誰にも見せないつもりで書いているが、それでも書かない。ドパガキにその理由を説明したことはない。説明しなくても、彼はこの手のことを一度も聞いてこない。
「毎日、その話をするんです」
彼女は、椅子に浅く座った。
「去年の夏くらいからです。……前は、こんな人じゃなかったです」
「スマホは」
「一昨年、私があげました」
彼女は、そこで少し声を落とした。
「私が、教えたんです。使い方」
「一つめ、おすすめ欄」
ドパガキは、寒河江さんが撮ってきたスクリーンショットを見た。四十枚あった。
「二週間ぶん、朝と夜」
「はい」
「……ほとんど同じジャンルだ」
彼は、四十枚を二列に並べた。朝の列と、夜の列である。
「で、朝と夜で変わってない」
「意味があるの?」
「ある。時間帯で変わらないってのは、一日中同じものを見てるってことだ」
「二つめ、滞在時間」
彼は推定した。
「おすすめの偏り方から、視聴の癖が読める。……この人、最後まで見てる」
「全部?」
「ほぼ全部だ。スワイプで飛ばしてない」
彼は、指を立てて、それを動かさずにいた。飛ばさない、という意味の手だった。
「三分の動画も、五分の動画も、最後まで見てる。……一日、四時間から五時間だ」
寒河江さんが、少し息を吸った。
「そんなに」
「そんなにだ」
「三つめ、枝分かれ」
彼はスクリーンショットを時系列に並べた。
「二週間で、ジャンルが四つに分かれてる。……で、四つとも、根が一つだ」
「根?」
「元になった一本がある。……そこから枝が伸びてる」
彼は、紙に四本の枝を描いた。定規を使わないので、枝が斜めになった。それがかえって、木らしく見えた。
「機械は、一本の動画に似たものを出す。それを見ると、また似たものを出す。……で、少しずつずれていく」
彼はスマホを置いた。
「二週間で四つに分かれた。……一年半なら、どこまで行くかわからん」
「で、決定打」
「一番古い履歴が見たい。……去年の夏だ」
寒河江さんは、祖母に電話をかけた。そして、履歴の一番下まで遡ってもらった。
十分かかった。電話の向こうで、二人が「もうちょっと下」と言い合っていた。指が滑るらしく、途中で二回、最初まで戻っている。電話の向こうの指は、私には見えない。寒河江さんの声が、そのたびに少しだけ子どもに戻った。祖母のほうも笑っていた。私たちは四人で黙って、その十分を聞いていた。何かを突き止める作業のはずなのに、そこだけは家の中の音だった。
一番最初に、長く見られていた動画は、健康の話でも、食べ物の話でもなかった。
歌だった。
古い歌謡曲を、一人の男性が歌っている動画である。再生時間は、四分十二秒。全部見られていた。
「これ」
寒河江さんが、画面を見て、止まった。
「これ、祖父の好きだった歌です」
彼女は、しばらく黙っていた。
「祖父、一昨年に亡くなって」
彼女は、画面の中の男性を指した。指が、画面に触れる前で止まった。止まった指の先が、少し震えているのが私にも見えた。動画の中の人は六十くらいで、髪を七三に分けていて、歌いながら少し照れていた。上手ではなかった。上手ではないのに、四分十二秒を最後まで歌いきっている。私はその四分十二秒を、寒河江さんの祖母が毎日見ているところを想像した。
「……あと、この人。祖父に、似てます」
ドパガキは、そのスクリーンショットを長いこと見ていた。
「あのさ」
「はい」
「機械はな」
彼は、さっき描いた木の、根のところを指した。
「理由を知らねえんだよ」
寒河江さんが、顔を上げた。
「あの人が、この動画を最後まで見た。それだけを見てる。……なんで見たかは、見てない」
彼は、根から一本目の枝へ、指を動かした。
「似てるから見た、ってのを、興味があるって数える」
「そこから、四つに分かれたのね」
「そう」
彼は、四本の枝の先を順に叩いた。
「同じ人が歌ってる別の動画。同じジャンルの別の人。その人が喋ってる別の話。……で、少しずつ、話がずれていく」
彼は、その紙を寒河江さんのほうに向けた。
「一年半だ。枝が四本になる」
「消し方、教えてください」
「消さねえよ」
「え」
「履歴を消すと、あの動画も消える」
彼は、根のところをもう一度指した。
「じいさんに似た人の歌も、消える」
彼女は、口を開けたまま、しばらく黙った。
「じゃあ、どうすれば」
「上書きしろ」
「上書き?」
「一緒に見ろ。二週間、毎日、三十分でいい」
彼は、紙の余白に、新しい枝を一本描き足した。
「あんたが見たいもんを、あの人の端末で見ろ。……機械は直近を重く見る。二週間で変わる」
「変わりますか」
「変わる」
彼は、その新しい枝を太く塗った。
「四つの枝は、たぶん残る。でも、太さは変わる」
寒河江さんは、卒業してから、それをやった。
一日三十分。祖母の家に行って、隣に座って、一緒に見た。三か月続けたそうである。夏に、彼女から連絡が来た。
『二本になりました』
四本が二本になった、ということだった。そして、こう書いてあった。
『歌の動画は、残ってます。毎日見てます』
「二本は残るのね」
「残るよ」
ドパガキは、歩幅を変えずに続けた。
「四時間見てたんだから、四時間ぶん残る」
彼は、そこで一度だけこちらを見た。
「消えるのを期待するのは違う。……上書きするのは、時間がかかるんだよ」
「あなた、なんでこういうの詳しいの」
彼は少し黙った。三歩ぶんくらいである。
「オレのおすすめ欄、三年前から変わってねえもん」
「え」
「三年前に一本見て、そっからずっと同じもんが出てくる」
彼は自販機の前で止まった。
「上書きしてねえからな」
「うわ」
「今度は」
「猫が歌ってる」
「猫が?」
「歌ってない。鳴いてるだけだ」
「……」
「でも、四百万回見られてる」
彼は十九分動かなかった。私は、四百万人のうちの何人が最後まで見たのかを、そのあいだ考えていた。最後まで見た人の数は、たぶん公開されていない。公開されていない数字のほうが、この二年で何度も効いている。四百万という数字は誰にでも見えて、そのうちの何人が本当に見たのかは誰にも見えない。見えるほうだけが、大きい顔をしている。
なお彼は、翌週にはこの事件のことを、きれいさっぱり忘れていた。




