三学期の転校生
二月に転校生が来るのは、去年に続いて二度目だった。
二年C組に来た穴井くんは、明るくて、話が上手くて、三日でクラスに馴染んだ。転校生が馴染むのに三日というのは、私の知るかぎりいちばん早い。去年の転校生は二週間かかっていた。廊下ですれ違うと、彼はこちらの名前を呼んだ。二年生の風紀委員の名前を転校して三日で覚えている人を、私はほかに知らない。
問題は、彼の話が、少しずつ大きくなっていったことだった。
「前の学校で、生徒会長だったって言ってます」
三浦亮太が言った。
「それが?」
「あと、県大会の三位だったって。陸上で」
「本当じゃないの?」
「本当かもしれないです。……でも、先週は県大会の四位でした」
彼は、自分のメモを開いた。日付が入っていた。
「話すたびに、少しずつ変わるんです」
「疑ってるだけじゃないの」
私は、そのメモを返した。私は、その手の噂が嫌いだった。嫌いな理由が自分でもわからないまま、嫌いだった。誰かの経歴を検証するというのは、風紀委員の仕事ではない。そう言おうとして、言い切れなかった。
「本人が困ってるんです」
「え?」
「今度、陸上部が『一緒に走ろう』って誘ってて。……断れなくなってるんです」
「一つめ、検索」
ドパガキは、その前の学校の名前で検索した。
「県大会の記録、公開されてる。……三年分見た」
「ありました?」
「ない」
彼は、その一覧を上から下まで送った。名前は一つも止まらなかった。
「三位も四位も、名前がない。……予選の記録にもない」
「生徒会は?」
「その学校のアカウント、三年分残ってる。……役員の名前が毎年出てる」
彼は、そこも同じ速さで送った。
「ない」
「二つめ、アカウント」
彼は穴井くんのアカウントを開いた。
投稿は四十件くらいあった。全部、この二か月のものだった。
「二か月前に作ってる」
「前のは?」
「消してる。……で、消した形跡が薄い」
「薄い?」
「消したアカウントには、痕跡が残るもんだ。誰かのフォロー欄に空欄が出たり、古いコメントが残ったり」
彼はスマホを置いた。
「何も出てこない」
「じゃあ」
「最初から無かったんだよ」
「三つめ、写真」
彼は四十件の写真を見た。
「この人、人が写ってる写真が一枚もない」
私は覗き込んだ。たしかに、風景と、食べ物と、自分の靴しかなかった。四十件を最後まで送っても、手の一本も写っていない。私のアカウントにも人はあまり写っていない。ただ私の場合は撮らないだけで、撮ろうと思えば撮る相手はいる。この四十件は、そうではないように見えた。撮る相手のいない人が、二か月かけて四十回、風景を撮っている。
「二か月で四十件だぞ。……誰とも撮ってない」
「で、決定打」
彼は、一番古い投稿を開いた。転校してくる前日のものだった。
『明日から新しい学校。頑張る。』
いいねは、ゼロだった。
「二か月前の一件目。……フォロワーゼロで上げてる」
彼は、そのゼロを指で押さえた。
「誰にも見られてない投稿を、わざわざ上げてる」
穴井くんは、否定しなかった。彼は生徒会室の椅子に座って、しばらく黙っていた。
「嘘です。生徒会長も、陸上も」
「なんで」
「……」
彼は答えられなかった。
「前の学校で、何かあった?」
私が聞くと、彼は首を振った。
「何もなかったです。本当に、何も」
「いじめられてたわけでもないです。友達もいました。普通でした」
彼は、机の上で手を組んだ。指がきれいだった。陸上をやっている人の手ではない、と思ってから、私はその考えを自分で打ち消した。手を見て何かを決めるのはドパガキのやることであって、私のやることではない。それでも、一度見てしまったものは消えなかった。
「三年間、普通でした。……で、転校が決まって」
彼は、その手を見た。
「新しい学校で、何を話せばいいかわからなかったんです」
「……」
「僕、話すことが何もないんです。三年間、何も無かったんで」
ドパガキは、壁にもたれていた。
「わかるよ。オレも、自己紹介できない。動画見てましたとしか言えねえ」
彼は、壁から背中を離した。
「でもさ、あんた」
「はい」
「前の学校で何も無かったんだよな」
「……はい」
「それ、無かったんじゃなくて」
彼は、そこで少しだけ言い方を変えた。ゆっくり言った。
「まだ無いだけだ」
穴井くんが、顔を上げた。
「あんた、まだ十七だぞ。三年間なんも無かったからって、残り六十年もなんも無いわけねえだろ」
「陸上部、どうすればいいですか」
「走れよ」
ドパガキは即答した。
「遅いです」
「遅くていいだろ」
彼は、椅子の背にもたれ直した。
「県大会三位が来たと思ってる奴らの前で、思いっきり遅く走れ」
「……最悪じゃないですか」
「最悪だな」
彼は、そこも即答した。
「でも、それがあんたの一件目だぞ」
穴井くんは、走った。
陸上部の練習に出て、五千メートルで最下位から二番目だった。嘘のことは、自分で説明した。
陸上部は、彼を追い出さなかった。三年生が一人、彼と一緒に走った。
三月の記録会で、彼は自己ベストを出した。県大会には、遠く及ばなかった。
「話すことができたのね」
私が言うと、ドパガキは肩をすくめた。
「まだねえよ」
「え」
「最下位から二番目だぞ。……話すことになるのは、たぶん三年後だ」
彼は、そこで指を三本立てた。
「三年後に、あいつが誰かに『最初、最下位から二番目でした』って言えたら、そこで話になる」
彼は自販機の前で止まった。
「うわ」
「今度は」
「猫が走ってる」
「速いの?」
「速い。……でも三秒でやめてる」
「……」
「猫は続けねえんだよ」
彼は十二分動かなかった。私は、四十件のどこにも人が写っていなかったことを、そのあいだ思い出していた。五千メートルを最下位から二番目で走ったとき、彼のうしろには一人いた。前には十何人かいた。どちらにしても、写真に写る相手はできたことになる。三年後にその話をするのかどうかは、私にはわからない。ただ、話す材料が一つ増えたことだけは確かだった。
なお彼は、翌週にはこの事件のことを、きれいさっぱり忘れていた。




