引っ越しの前日
一月の半ば、古市奏太が生徒会室に来た。一年半ぶりである。
三年A組になっていた。髪が伸びていて、声はやっぱり小さかった。ドアの開け方も、一年半前と同じだった。半分だけ開けて、そこから入る。
「柏木から、来ました」
一年半前の七月、彼は深夜一時四十七分に十五秒の動画を上げて、四十秒で消した。転校した友人・柏木蓮に届けるためである。
閲覧者リストに見覚えのないアカウントが出た瞬間に、彼は消した。
「返事、来たんですか」
「来ました。……たぶん」
彼は、スマホを両手で持っていた。
「三日前です。深夜二時に、知らないアカウントが十五秒上げて、消しました」
彼は下を向いた。
「僕、通知オンにしてました。……でも、意味がわからないんです」
十五秒の動画は、屋上だった。フェンス。夜。遠くに、灯りが少し。
「うちの廃団地じゃないんです」
彼は、その一点を指した。
「フェンスが違います。網じゃなくて、コンクリの壁で」
「一つめ、音」
ドパガキは音量を上げた。風の音の下に、規則的な電子音が入っていた。
「踏切だ」
「一年半前と同じね」
「同じだ。……で、中身が違う」
彼は波形を出した。二つの波形を、上下に並べた。
「鳴りはじめてから通過音まで、五十四秒。……で、通過音が長い」
「長いと?」
「編成が長い。六両か八両だ」
彼はスマホを置いた。
「うちの市の二両編成じゃない。都市部だ」
「二つめ、灯り」
彼は、背景の光の点を数えた。数えるのに、二分かかった。私は横で見ていた。画面の中の光は、私には粒にしか見えない。粒がいくつあるかは数えられても、それが何階の窓なのかは、私にはわからなかった。彼は粒の間隔を測っていた。同じ間隔で縦に並んでいるものだけを拾って、それを階数として数えている。二分というのは、そういう二分だった。
「遠くの灯りが、十四階まで積んである」
「マンションね」
「十四階建てが三棟見える。……うちの市に十四階建ては一つもない」
彼は、その列を指でなぞった。
「で、灯りの色が白い。LEDに切り替わってる地域だ」
「三つめ、壁」
彼はフェンスの部分を拡大した。
「コンクリの壁の上に、金網が乗ってる。……この作り、公営住宅の屋上だ」
彼は、その高さを画面の上で測った。
「あと、壁の高さが百三十センチ。……建築基準法が変わったあとの建物だ」
「新しいってこと?」
「新しい。二十年以内だ」
「で、決定打」
彼は投稿の時刻を出した。
「三日前の深夜二時十一分」
「はい」
「で、古市。あんた、その日の何時に投稿した?」
古市くんは、スマホを確認した。指が、少し止まった。
「……二時八分です」
「三分前だな」
ドパガキは、二つの時刻を並べて書いた。
「三分前にあんたが上げて、三分後に向こうが上げてる」
彼はスマホを置いた。
「あいつ、あんたの通知オンにしてるぞ」
古市くんは、そこで動かなくなった。
「一年半前」
「はい」
「あのとき、僕が上げて、四十秒で消して」
「うん」
「……見てくれてたのは、わかったんです。でも、それだけで」
彼は、スマホを膝に置いた。
「返事は、無かったんで」
「一年半かかっただけだろ」
ドパガキが言った。
「柏木は、いま、どこにいるんですか」
「わからん」
彼は、地図を出した。候補が、青い点で散っていた。
「六両以上が走ってて、十四階建てが三棟あって、二十年以内の公営住宅がある場所だ。……候補が四十くらいある」
「絞れないんですか」
「絞れる。あと三日あれば」
彼は、その地図を閉じた。
「でも、絞らねえよ」
「なんで」
私が聞いた。
「あいつ、場所を言ってねえんだよ」
ドパガキは、動画をもう一度流した。十五秒のあいだ、映るものは何も増えなかった。フェンスと、夜と、遠くの灯り。カメラは一度も動かない。誰かが手で持っているはずなのに、揺れが無い。どこかに置いて、十五秒待って、それから拾い上げたのだと思った。その十五秒のあいだ、撮った人は何をしていたのだろうと私は考えた。たぶん、何もしていない。
「言う気があれば、駅名でも建物でも映す。……映してない。屋上とフェンスと踏切の音だけだ」
彼は、そこで再生を止めた。
「一年半前の古市と、同じことをやってる」
「……」
「『どこにいるか』じゃない。『まだ屋上に上がってる』って言ってんだよ」
古市くんは、しばらく黙っていた。
「返事、していいですかね」
「していいだろ」
「アカウント、知らないんですけど」
「同じことやれ」
ドパガキは、指を四十のかたちに動かした。四十秒、という意味だと私にはわかった。
「全体公開で上げて、四十秒で消せ。……向こうは通知オンにしてる。三分で来る」
古市くんは、その夜に上げた。
私は見なかった。見ないほうがいいと思った。見なかったので、そこに何があったのかは、私にはわからない。全体公開というのは、誰でも見られるということである。誰でも見られる場所に四十秒だけ置くというやり方を、二人は一年半前から変えていない。見ようと思えば見られる。見られるのに見に行かないでおくというのは、私には初めての種類の我慢だった。
四十秒で消えたそうである。そして、その七分後に、返事が来たそうである。
一週間後、古市くんが報告に来た。今度は、ドアを全部開けて入ってきた。
「毎日やってます」
「毎日?」
「毎日、二時ごろに。……四十秒ずつ」
彼は少し笑った。
「めんどくさいですよね」
「めんどくさいわね」
「フォローすればいいのに、って言われます」
彼は、そこで少しだけ声を大きくした。
「でも、このほうがいいんで」
帰り道、私はその理屈を確かめた。
「なんで、このほうがいいのかしら」
「消えるからだろ」
「消えると、いいの?」
「消えると、毎日やらないといけない」
彼は、歩幅を変えずに続けた。
「残ってたら、一回でいい。……消えるから、明日もやる」
三月に、二人はまだ続けていた。夏に、片方が一日休んだ。もう片方も休んだ。翌日、両方が上げた。
その話を私が聞いたのは、ずっとあとのことである。
彼は自販機の前で止まった。
「うわ」
「今度は」
「猫が屋上にいる」
「危ないでしょう」
「フェンスの内側だ。……別の屋上にも猫がいる」
「知り合い?」
「知らね。見てるだけだ、たぶん」
彼は十七分動かなかった。十七分を、私は数えていた。一月の風が、自販機の裏から抜けていった。私は、毎日二時に四十秒だけ現れて消えるものについて考えていた。残らないから、明日もやる。彼の言い分は筋が通っている。ただ、筋が通っているものが楽だとは限らない。二人とも、たぶん眠い。眠いままで一年半分の返事をしているのだと思うと、私は少しおかしくなった。
なお彼は、翌週にはこの事件のことを、きれいさっぱり忘れていた。




