消えた三十秒
十二月。軽音部が、練習の生配信をやっている。
週に一度、二時間。視聴者は多いときで四十人くらいである。その十二月三日のアーカイブから、三十秒が消えていた。
「気づいたの、私だけかもしれないです」
一年C組の多田さんは、そう言った。軽音部の一年である。
「三十秒?」
「一時間十二分のところです。急に曲が飛ぶんです」
彼女は、イヤホンの片方を私に差し出した。私はそれを耳に入れた。片方だけだと、音が頭の左に寄って聞こえる。
「配信は見てました。……あのとき、何かあったんです」
「何かって」
「わかんないです。私、その日、外にいたんで。音だけ聞いてました」
「一つめ、継ぎ目」
ドパガキは、音声波形を出した。
「ここ。一時間十二分。……音が不自然に繋がってる」
「切ったのね」
「切ってる。……で、切り方が下手だ」
彼は再生した。
たしかに、曲の途中で拍がずれた。私にも、そこはわかった。踏み外したように聞こえた。音楽をやっている人でなくても気づく種類のずれである。四十人が見ていた配信で、そこだけが不自然になっている。気づいたのは、いまのところこの一年生一人だった。
「編集した人間、慣れてない。……普通は、曲の切れ目で切る」
「切れ目まで待てなかったってこと?」
「そう。急いでる」
「二つめ、視聴者数」
彼はグラフを出した。
「配信中の視聴者数が記録されてる。……で、一時間十二分のところで、三人増えてる」
「増えた?」
「増えた。……で、一分半後に、三人とも抜けてる」
彼はスマホを置いた。グラフの、小さな山が一つ。私は、そこを二度見た。二時間の配信で、視聴者は三十人台をずっと保っている。線は、ほとんど平らだった。その平らな線の一か所に、三人ぶんの山が乗って、九十秒で消えている。入って、聞いて、抜けた形である。
「入って、三十秒見て、抜けてる」
「三つめ、コメント」
彼はコメントログを出した。
「アーカイブからは消えてる。……でも、配信中のコメントは、通知として残ってる人がいる」
彼は多田さんを見た。
「あんた、通知オンにしてるだろ」
「してます」
「見せて」
多田さんの通知欄に、三件だけ残っていた。
『え』
『いまの誰』
『やば』
三件とも、一時間十二分ごろのものだった。
「誰かが喋った」
「そう。画面の外で、誰かが何か言った」
彼は、その三件を上から順に押さえた。
「で、それがマイクに入った」
「で、決定打」
彼は、編集された前後をもう一度聞いた。
「切る直前、〇.四秒だけ残ってる」
彼は音量を最大にした。
かすかに、笑い声が聞こえた。廊下の音である。部室の中の音ではない。ドアが薄いので、廊下の声はよく通る。三年間、この部室で練習してきた人なら、それは知っているはずだった。
そして、その下に、一言。
聞き取れなかった。だが、聞き取れないほうがいいと、私は思った。
「編集したの、誰?」
「配信してた奴だ。……配信者しか編集できねえからな」
配信していたのは、部長の大道さんだった。三年生である。ギターを弾いていた。
彼女は否定しなかった。
「切りました」
「あそこで、何があったんですか」
彼女は少し黙った。部室の隅で、アンプの電源が小さく鳴っていた。
「私の悪口を言われました。部室の外で。……誰かが、廊下で。マイクが拾ってました」
「じゃあ、切ったのは」
私は言いかけて、止まった。自分が言われたことを、自分で消したのである。
「恥ずかしかったんですか」
「違います」
彼女は即答した。
「言った人が、誰かわかったんです。……声で。うちの部員です」
「だから消したの?」
「はい」
彼女は、ギターのネックを握った。
「あのまま残ってたら、みんな聞くじゃないですか。四十人見てたんで。……誰が言ったか、わかっちゃうんで」
彼女は、自分の手を見た。
「三年でやめるんで、私。あと三か月なんで」
「……」
「三か月で終わる話です。あの子は、あと二年いるんで」
ドパガキは、部室の壁にもたれていた。
「わかるよ。オレも、燃えそうなもんは消す。……で、自分のじゃなくても消す」
彼は、壁から背中を離した。
「でもさ」
「はい」
「あんた、自分が言われたのを消したんだよな」
大道さんが、顔を上げた。
「言った奴を守るために」
彼は、指を二本立てた。
「それ、あんたが二回損してるんだよ」
「一回目は、言われたことだ。二回目は、それを無かったことにしたことだ」
彼は、指を一本ずつ折った。
「あんたの三十秒だぞ、それ」
「……はい」
「消したのは、あんたの判断だ。オレは正しいか間違ってるか言わない。……でもな」
彼はスマホを置いた。さっきのグラフが、まだ出ていた。
「三人が見てる」
大道さんが、まばたきをした。
「一時間十二分に入ってきて、三十秒見て、抜けた三人だ。……あいつら、聞いてる」
三人が誰だったのかは、わからなかった。大道さんは、それを調べなかった。
「調べないんですか」
私が聞くと、彼女は首を振った。
「調べたら、私も同じになるんで」
言った部員のことは、誰にも伝わらなかった。大道さんは、その子と最後まで普通に喋った。
三月に、彼女は引退した。
引退の日の配信は、二時間半あった。一度も切られなかった。
帰り道、私はその判断のことを聞いた。
「守ったんだよな、あれ」
「守った」
「よかったと思う?」
「思わねえ」
彼は即答した。
「……そう」
「でも、オレが決めることじゃねえ」
彼は、歩幅を変えずに続けた。
「あれは、あいつの三十秒だ」
彼は自販機の前で止まった。
「うわ」
「今度は」
「猫の配信で、飼い主が怒られてる」
「誰に?」
「見てる人に。猫の映し方が悪いって」
「……理不尽ね」
「理不尽だ。……で、飼い主が謝ってる」
彼は十二分動かなかった。私は、聞き取れなかった〇.四秒のことを、そのあいだ一度も思い出さないようにしていた。思い出さないようにするというのは、思い出しているということである。聞き取れなくてよかったと、私はいまでも思っている。聞き取れていたら、私はたぶん、誰かに言っていた。
なお彼は、翌週にはこの事件のことを、きれいさっぱり忘れていた。




