二百四十万人が、誰も見ていない
九月。文化祭まで、あと二週間。うちの高校が、初めて「有名」になった夏だった。
一年A組の日下部陸が上げたダンス動画が、二百四十万回再生された。地方局が取材に来て、校長が朝礼で三分間その話をした。玄関に「祝」と書かれた紙が貼られ、二日で剥がれた。
私はその紙のことを、なぜかよく覚えている。
灰谷透が生徒会室に来たのは、放課後だった。
一年A組。背が高くて、猫背で、私と目を合わせなかった。
「土場先輩に、相談があって」
ドパガキは机に足を乗せてスマホを縦にしていた。行儀が悪かったが、私はもう注意するのをやめていた。
「あのアカウント、二人で始めたんです。四月に。俺が撮って、あいつが踊って」
「うん」
「七月に、パスワード変えられました。いま入れないです」
「アカウント返してほしいのか」
灰谷は首を振った。それから、しばらく黙って、こう言った。
「返してほしいんじゃなくて」
彼は自分の指を見ていた。
「……あいつ、たぶん死ぬんで」
ドパガキは足を下ろした。
「見せろ。全部だ。四月から今日まで」
「百八十本くらいありますけど」
「三倍速で流す。喋んなよ」
彼は一時間半、動かなかった。
私はそれを見ていた。一時間半のあいだ、指は三回しか動かなかった。私は、その三回を数えていた。この男が一つのことに一時間半費やすのを、私は二度目に見た。一度目は、峰岸の家の玄関でのことだった。
「一つめ、画角」
彼は途中の一本で止めた。
「七月十八日まで、全部手持ちだ。撮る側が動いてる。カメラが踊りに合わせて寄ったり引いたりしてる。……で、七月十九日から、固定になる」
彼は日付を並べた。
「三脚だ。位置が一ミリも動かない。同じ画角が今日まで百二十本続いてる。……撮影者が消えた日が、映像に残ってる」
灰谷は何も言わなかった。
「二つめ、投稿間隔」
「バズる前は、週二本。七月二十二日から、一日五本。八月以降は、深夜二時台の投稿が全体の四割」
「四割……」
「バズった人間がやることは決まってる。落ちるのが怖くて本数を増やす。オレは見る側だから知ってる。伸びた奴のアカウントは、だいたいそのあと荒れる」
「三つめ、カットの長さ」
彼は二本を並べた。六月の一本と、九月の一本。
「六月のやつ、カット割りが〇・六秒。九月のやつ、〇・三秒」
「半分?」
「半分だ。……これ、感覚でやってんじゃない。視聴維持率のグラフを見て合わせてるんだよ。どこで人が離脱するか、数字で出るからな。離脱の直前で切る。それを繰り返すと、こうなる」
彼は九月の動画を最後まで流した。目が痛くなるほど速かった。踊っている人間の顔が、一度も一秒以上映らなかった。
「数字に合わせて、自分を削ってる」
「四つめ、コメントの返信時刻」
彼はコメント欄をスクロールした。
「三時四十分。五時二十分。七時五分。……で、朝八時十五分に登校してる。睡眠三時間だ、これ」
私は口を挟んだ。
「二百四十万の動画に返信してたら、そうなるんじゃないの」
「そこだよ」
ドパガキは私を見た。
「二百四十万のほうには返信してない」
「え」
「返信してんのは、九月に上げた、三千回とか五千回とかで止まってるやつだ。伸びてないほうにだけ、全部返してる」
彼はスマホを置いた。
「バズった一本はもう自分のもんじゃない。二百四十万人はどこにも見えない。……見えるのは、三千回のコメント欄に来た四人だけだ。だからそこにしがみついてる」
灰谷が、拳を握るのが見えた。
「で、決定打」
ドパガキは、二つの画面を並べて置いた。
「二百四十万のやつ、あれ上げ直してるだろ」
灰谷の肩が跳ねた。
「……なんでわかるんですか」
「投稿日が七月十七日なのに、コメントの最古が七月二十四日だ。一週間ズレてる。消して上げ直したときの典型的な形だ」
彼は指を鳴らそうとして、失敗した。
「で、オレは元のやつを見てない。もうないからな。……誰か、七月十七日から二十三日のあいだに、あれを保存してる奴はいないか」
私は、心当たりがあった。
佐倉ひかりは、生徒会室のドアの前で、少しだけ意外そうな顔をした。
「私に?」
「保存してるでしょう」
「……なんの話」
「あなた、切り抜きアカをやってたとき、上げたもの全部ローカルに残してたでしょう。運動会も、文化祭も。……いまも消してないでしょう」
彼女は数秒黙って、それから小さく笑った。
「風紀委員、こわいわね」
「あなたに教わったの」
彼女はノートパソコンを開いた。フォルダの階層は、私が見たどんな生徒のそれより整理されていた。日付、行事名、投稿前と投稿後。
「七月十七日。……あるわ」
ドパガキは、二本を並べて再生した。七月十七日の元版。七月二十四日の再投稿版。同じ曲。同じ振り。同じ場所。
三十秒ほど見て、私にもわかった。
「……人が」
「そう」
元版には、踊っている日下部の後ろで、カメラを持ったまま一緒に体を揺らしている灰谷が、七回映っていた。ラスト二秒には、二人でカメラに手を伸ばして画面が暗転する、という締めまであった。
再投稿版には、その七カットが、一つも残っていなかった。締めも差し替えられていた。日下部が一人で、正面を向いて終わる。
生徒会室が、静かだった。
「……知ってました」
灰谷が言った。
「気づいたの、八月です。何回も見てたんで、あれ、って」
彼は笑おうとした。峰岸美結と同じ、失敗した笑い方だった。
「でも、あいつのほうが上手いんで。俺が映ってると、たぶん、数字が落ちるんで」
佐倉ひかりが、そこで初めて口を開いた。
「それ、あなたが決めることじゃないでしょう」
彼女の声は、静かで、少し硬かった。
「……それを決めていいのは、消された側だけよ」
日下部陸を捕まえたのは、その日の夜だった。
彼は体育館裏で三脚を立てていた。九時を過ぎていた。校門は閉まっていた。制服のままだった。
痩せていた。夏より明らかに痩せていた。目の下が、黒かった。
「なんすか」
彼は撮影を止めなかった。
ドパガキは、しばらく黙ってそれを見ていた。同じ振りを、五回、六回、七回。日下部は毎回、途中で舌打ちをして、最初からやり直した。
八回目の途中で、ドパガキが言った。
「あのさ」
「見てるなら黙っててもらえます? いま集中してるんで」
「知ってる。オレもそれ言う」
日下部の動きが、少し鈍った。
「オレ、一日八時間くらい、あんたらが上げたやつを見てる側だ。人生溶けてる自覚もある。中間テスト、五教科で二百いってない」
「……何が言いたいんすか」
「見る側の八時間より」
ドパガキは一歩だけ前に出た。
「上げる側の八時間のほうが、ずっと早く人を殺す」
日下部が、止まった。
「見る側は、飽きたら閉じれば終わりなんだよ。明日また開けばいい。……上げる側は、閉じたら終わるんだ。意味が全然違う」
「あんた、二百四十万人に見られたよな」
「……はい」
「その二百四十万人、あんたの顔、誰も覚えてねえよ」
日下部の呼吸が、止まったように見えた。
「オレも覚えてない。オレ、たぶんあんたの動画、五回くらい流れてきてる。今日まで名前も知らなかった。……明日には別のが流れてくる。全員そうだ」
「やめてください」
「やめない」
ドパガキは、体育館の壁のほうを指した。
灰谷透が、そこに立っていた。いつからいたのか、私も気づかなかった。
「でもこいつは覚えてる」
日下部が、そちらを見た。
「あんたが七カット消したのも、締めを差し替えたのも、こいつは全部気づいてた。八月に。それでも黙ってて、九月に、死ぬんじゃねえかっつってオレんとこ来た」
ドパガキは、それきり黙った。長い沈黙のあと、彼はぼそりと付け足した。
「……それ、二百四十万分の一だと思うか」
日下部陸は、その場では何も言わなかった。
三脚をたたんで、スマホをしまって、灰谷の横を通り過ぎて、そのまま帰った。灰谷は追いかけなかった。私も止めなかった。止めていたら何を言えばいいのか、わからなかった。
ドパガキは、体育館の壁にもたれて、スマホを取り出した。
「猫は」私は聞いた。
「今日は見ない」
彼は画面を伏せたまま、そう言った。
三日後、あのアカウントに新しい動画が上がった。
手持ちだった。カメラが揺れていた。カットは長くて、〇・八秒くらいあった。踊っている顔が、ちゃんと一秒以上映っていた。
ラスト二秒で、二人がカメラに手を伸ばして、画面が暗転した。再生数は、三万一千回だった。
コメント欄には、誰への返信もついていなかった。
「三万か」
私が言うと、ドパガキは肩をすくめた。
「三万人だぞ。体育館に入りきらねえよ」
「そういう数え方するの、あなただけだと思う」
「オレは見る側だからな。一人ずつ数えたら死ぬほど多いってことは知ってる」
彼は珍しく、スマホを見ていなかった。
「オレはなんもしてない」
「そうね」
「ほんとになんもしてない。夜の学校に不法侵入して、一年に説教しただけだ。あれ普通に風紀案件だからな」
「そうね」
「なんで笑ってんだよ」
なお、その翌週。
彼のもとに六件目の相談が来る。今度の事件には、目撃者が一人だけいた。
その目撃者は、三か月間、家から一歩も出ていない人間だった。




