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八月の学校は、人がいないぶん、暑い。
私は委員会の書類整理で登校していた。ドパガキは登校する理由がないはずなのに、なぜか図書室の隅の席を占拠して、エアコンの下でスマホを縦にしていた。
「家、エアコン壊れてんの?」
「壊れてない。家だと親が話しかけてくる」
そういう理由で人は学校に来るのか、と私は思った。
そこへ、峰岸ゆいが来た。二年D組。話したことは数えるほどしかない。彼女は入口で少し迷ってから、まっすぐ私のところに来て、こう言った。
「鎮目さん。……変な相談していい?」
「私のおすすめ欄、おかしいんです」
彼女はスマホを机に置いた。画面には縦動画の一覧が並んでいる。
家出。夜行バスの乗り方。所持金三万円で生活する方法。誰にも言わずに家を出た日のこと。
「私、こういうの、一回も検索してません。いいねもしてない。なのに、スワイプしてもスワイプしても、これが出てくる」
「……いつから」
「六月の終わりくらいから。だんだん増えて、いまはほとんどこれです」
彼女は指を止めた。
「気持ち悪くて。誰かに見られてるんじゃないかって」
私は返事に困った。返事に困ったので、ドパガキを見た。
彼は本から一度も顔を上げていなかった。本ではない、スマホからだ。
「アルゴリズムは監視じゃねえよ」
「え」
「鏡だ」
彼はようやく顔を上げた。
「あんたが見たものを、そのまま返してくる。それだけの機械だ。……で、鏡がおかしいってことは、映ってるのがあんたじゃないってことだ」
「一つめ、尺」
彼は峰岸のスマホを、断りもなく手に取った。
「ちょっと」
「静かに。……ほら、いま出てきたやつ、全部六十秒以上ある。長尺だ」
彼はスワイプした。次。次。次。三秒ずつ。
「見た? いまオレ、三秒で飛ばした。十本連続で」
「見たけど」
「峰岸。あんた、ふだん一本何秒で飛ばす」
「え……三秒とか、四秒とか」
「だろ。……このアプリはあんたを短尺の人間だと知ってる。三秒で飛ばす人間には、短くて掴みの強いやつを出す。そういう機械だ」
彼は画面を私に見せた。長い動画ばかりが並んでいる。
「なのに、六十秒超えを出してくる。長いのを最後まで見た履歴があるからだ。しかも一本や二本じゃない。何十本も」
「私、そんなの見てません」
「知ってる。あんたじゃない」
峰岸の顔から、少し血の気が引いた。
「二つめ、時間帯」
「時間帯?」
「宿題出す。今日の昼と、今日の深夜二時に、おすすめ欄のスクショ撮って送れ。十枚ずつ」
「……いま話してるのに、宿題?」
「いまわかる話といまわからん話がある。黙って撮れ」
翌日、峰岸から画像が届いた。彼はそれを並べた。
「見ろ。昼のおすすめは普通だ。カフェ、コスメ、犬。あんたっぽい」
「はい」
「深夜二時台だけ、全部家出だ」
私は声を出しそうになった。
「アプリは時間帯ごとに癖を学習する。朝の三十分と夜中の三十分は、同じ人間でも別人扱いされる。……深夜だけ別人が使ってるんだよ、この端末」
「三つめ、保存」
彼は峰岸のアカウントの保存フォルダを開かせた。
「これ、あんたが保存した?」
一本だけ、風景の動画が入っていた。夜のロータリー。ライトを点けたバスが停まっている。西の端の乗り場。
「知らないです。……これ、駅前?」
「駅前だ。夜行バスの乗り場。……よく撮れてんな、これ。投稿者は旅系の人間だ。だが保存する意味があんのは、ここから乗る人間だけだ」
峰岸は答えなかった。答えられなかったのだと思う。
「それで、決定打」
ドパガキは彼女のスマホを裏返した。
「あんた、ロック画面の通知、消してる?」
「え……消してないです。溜まってます」
「うん。溜まってる。……で、深夜二時台の通知だけ、既読になってる」
彼は画面を指で示した。私はそれを覗き込んだ。何が映っているのか、三秒わからなかった。
「あんたが寝てる時間に、誰かがこのスマホのロックを解除してる。パスコードを知ってる人間だ」
峰岸ゆいの唇が、震えた。
「……同じ家の人間だな」ドパガキは言った。「妹さん、いくつ」
「……中二です」
「自分のスマホは」
長い間があった。
「六月に。親に、取り上げられました」
峰岸美結は、姉の部屋の入口に立っていた。
痩せた中学生だった。前髪が長くて、目が見えなかった。学校に行っていないと聞いていた。理由は姉も知らないと言った。
私たちは何も言わなかった。ドパガキは、床に座って、いつものようにスマホを縦にしていた。
沈黙は、たぶん一分くらい続いた。それから彼が、画面から目を離さずに言った。
「あのさ」
「……はい」
「家出調べんなら、自分の端末でやれよ」
美結が、少しだけ顔を上げた。
「学校のパソコンでも、図書館のでもいい。友達のでもいい。今どき、履歴の残らんとこはいくらでもある」
「……」
「なんで姉のスマホなんだよ」
美結は答えなかった。
「毎晩、履歴が残る端末で調べてんだよ。保存までしてる。消してもない。……三か月分、まるごと置きっぱなしだ」
彼は初めて顔を上げた。
「バレたかったんだろ」
美結は、そこで泣かなかった。
代わりに、ずいぶん長いあいだ黙っていて、それから小さな声で言った。
「……お姉ちゃん、気づかなかった」
「気づいたよ」
ドパガキは即答した。
「おすすめ欄が変だっつって、他人に相談しに来たぞ、こいつ。夏休みに、わざわざ学校まで来て、ほとんど喋ったこともない風紀委員に。……気持ち悪いって思ったんじゃない。怖かったんだよ、こいつは」
峰岸ゆいが、口を手で押さえた。
「そこまでやる姉、そういないぞ」
美結は、前髪の奥で、ようやく目を上げた。
姉のほうが先に泣いた。妹はそれを見て、少し困った顔をした。私は、やっぱり何も言えなかった。姉が何に泣いているのかも、わからなかった。
帰り際、玄関で靴を履いているとき。美結が、ぼそりと言った。
「さっき見てたの、猫が寿司握ってるやつですよね」
ドパガキの手が、靴紐の途中で止まった。
「知ってんの」
「有名じゃないですか。三年前くらいの」
「そう。三年前」
「でもあれ、投稿者もうないですよ」
彼は顔を上げた。
「え」
「アカウントごと消えてます。転載しか残ってない。私、本家探したことあるから」
夏の夕方の、湿った風が玄関から入ってきた。
ドパガキは、何も言わなかった。靴紐を持ったまま、たっぷり十秒、動かなかった。私は、それを見ていた。
私がこの男を見てきて、三分以上ひとつのことを考えているのを見たのは、それが初めてだった。
帰り道、私はそれを聞いた。
「知ってたの」
「なにが」
「投稿者がいないって」
「……知ってた」
彼はスマホを見ていなかった。ポケットに入れたままだった。
「三年前から知ってる」
それ以上、彼は喋らなかった。私も聞かなかった。聞いてはいけない気がした。
九月、峰岸美結は、週に一度、保健室に来るようになった。
夜行バスの動画は、保存フォルダから消えていた。姉が消したのではないらしい。
「オレはなんもしてない」
ドパガキは、画面から目を離さなかった。
「そうね」
「ほんとになんもしてない。あいつのスマホ勝手に見ただけだ。あれ普通に犯罪だからな」
「そうね」
「なんで笑ってんだよ」
なお、その翌週。
彼のもとに五件目の相談が来る。今度の依頼人は、二百四十万回再生されたアカウントの、もう映っていないほうの人間だった。




