見えない部屋
「知らない部屋の写真が、送られてくるんです」
九月の終わり。二年C組の尾花さんは、生徒会室のドアを閉めてから、そう言った。
「誰から?」
「知らないアカウントです。名前も、英数字だけで」
彼女はスマホを差し出した。差し出す手が、少し冷たかった。
「三か月です。週に二回か三回」
写真は、六十一枚あった。どれも同じ部屋だった。人は一人も写っていない。窓。壁。天井。ドア。カーテン。床の一部。押入れの襖。
物も、机が一つと丸い時計が一つ。それだけである。
私は六十一枚を順に送った。送っているうちに、こちらが覗いているような気持ちになった。誰も写っていない写真なのに、である。
「文章は」
「一度もないです。写真だけです。六十一回」
「面白いな」
ドパガキが言った。
これで二回目である。一回目がいつだったかを、私はすぐに思い出した。
「面白くないです。怖いです」
尾花さんが言った。
「そうか」
彼はスマホを受け取った。
「じゃあ、部屋を全部出す」
「一つめ、コンセント」
彼は一枚を拡大した。壁の下のほうに、白い四角が写っていた。
「これが基準になる」
「基準?」
「日本の住宅のコンセント、床から二十五センチに付けるのが普通だ。……これで、写真の中のもんの大きさが全部出る」
彼は、画面の上を指で測った。親指と人差し指の幅を、そのまま定規にしていた。
「このカーテン、丈が百七十八センチ。この机、幅九十センチ。この時計、直径二十五センチ」
「そんなに正確に」
「正確じゃねえ。でも、桁は合う」
「二つめ、クロスの継ぎ目」
彼は壁を拡大した。
言われないと気づかない、細い縦線が入っていた。私は三枚戻って、同じ線を探した。二枚目には見つからなかった。
「壁紙は、ロールで貼る。幅は九十二センチが標準だ」
「継ぎ目で幅がわかるのね」
「わかる。……この壁、継ぎ目が三本。四枚ぶんだ」
彼は、机の上で指を折った。
「三メートル六十八センチ。……端が半端に切れてるから、実測で三メートル四十くらいだ」
「一辺が三メートル四十」
「そう。……次は奥行きだ」
「三つめ、エアコン」
彼は別の一枚を出した。カーテンが、少し膨らんでいた。
「エアコンが動いてる。……で、カーテンの膨らみ方を見る」
彼は三枚を並べた。三枚とも、私には同じ膨らみ方に見えた。
「風は右上から来てる。距離で膨らみ方が変わる。……吹き出しから窓まで、二メートル八十くらいだ」
「奥行きね」
「そう。……で、これで六畳間だ。三.四×二.八。だいたい合う」
「四つめ、音」
六十一枚のうち、一本だけ動画があった。三秒。ただ、床を映しているだけである。
「これ、足音が入ってる」
彼が音量を上げると、かすかに、木の床を歩く音がした。一歩か、二歩である。
「残響が短い。……狭いか、物が多いか、天井が低いかだ」
彼は、その三秒をもう一度流した。
「物は少ない。てことは、天井が低い。二メートル三十くらいだ。標準より十センチ低い。……築年数が古いってことだ」
「五つめ、光」
彼は、日付の近い十四枚の、床に落ちた四角い光の位置を紙に写した。定規を使わないので線が斜めになったが、点は一本の弧に並んだ。
「動く方向と速さで、窓の向きが出る。南南東だ。……で、午前中しか日が入らない」
「前に建物があるのね」
「ある。……で、決定打だ」
彼は、窓の外が写っている一枚を出した。ぼやけていて、ほとんど何も見えなかった。
「ここ。電柱が一本立ってる。……で、少し傾いてる」
彼は拡大した。私にはやはり、灰色の縦線にしか見えなかった。傾いているのかどうかも、わからなかった。
「傾きの向きと、電線の本数。窓からの距離が四メートル二十」
彼はスマホを置いた。
「あとは、市内で条件の合う場所を探すだけだ」
彼は、四十分かかった。
そのあいだ、尾花さんはずっと同じ姿勢で座っていた。私は、二回お茶を替えた。
「三か所ある」
彼は地図を出した。築三十年以上、天井が低い、南南東向きの六畳、前に建物、傾いた電柱。その全部を満たす場所である。
「駅の南に一か所。学校の東に一か所。……川沿いに一か所」
そこで、尾花さんが声を出した。
「……あの」
彼女は、地図の三か所目を見ていた。
「そこ、私の去年の家です」
尾花さんは、去年の三月に引っ越していた。同じ市内で、学校が変わらない距離だったので、誰にも言っていなかった。
「あの部屋、私の部屋でした。十二年、住んでました」
送っていたのは、中学一年の女子だった。藤代さんという子で、三月にその家に引っ越してきていた。
私たちが訪ねても、彼女は驚かなかった。
「来ると思ってました。六十一枚も送ったんで」
「押入れの上の段の奥に、落書きがあったんです。壁に、直接」
彼女は、襖を開けて上の段を指した。私は身を乗り出した。埃と、古い木の匂いがした。
小さな字で、アカウント名が書いてあった。それと、日付。
『四月三日』
「これ、私です」
尾花さんが言った。
「小学生のとき、書きました。……忘れてました」
「なんで写真送ってたの」
私が聞くと、藤代さんは少し黙った。
「わかんないです」
彼女は、襖に手をかけたまま立っていた。
「この部屋、前に誰か住んでたんだなって思って。それで、この部屋を知ってる人がいるって思って。……そしたら、送りたくなって」
ドパガキは、部屋の入口に立ったままだった。中に入らなかった。靴下のまま、敷居の外にいた。
「あのさ。六十一枚、送ってんだよな」
「はい」
「一枚も、人が写ってねえよ」
藤代さんが、顔を上げた。
「六十一枚、全部、部屋だけだ。手も、足も、影も写ってない」
彼は、そこで初めて部屋の中を見回した。
「その部屋、あんた一人しかいねえだろ」
藤代さんは、答えなかった。
「共働きなんです」
しばらくして、彼女は言った。
「帰ってくるの、九時とか十時で。……きょうだいもいないんで」
「一人?」
「一人です。三月から」
彼女は、襖から手を離した。
「学校、まだ友達いないんで」
尾花さんは、その日、初めての返事を書いた。書いたのは、こういうことだった。
『押入れの上の段、奥のほうが板が浮いてるので、重いものを置かないほうがいいです。』
『冬、窓の右下から風が入ります。テープを貼ると止まります。』
『時計の場所、少し右にずらすと、朝、光が当たってきれいです。』
一週間後、藤代さんから写真が届いた。六十二枚目である。時計が、少し右に移動していた。
そして、写真の右下の隅に、手が写っていた。彼女の手である。
帰り道、私はさっきの言葉を確かめた。
「面白かった?」
「面白かった」
彼は即答した。
「部屋?」
「部屋」
彼は、川のほうを見た。私たちは、その川沿いを歩いていた。
「六十一枚あって、誰も写ってない部屋の写真だぞ。……あれ、部屋の写真じゃねえよ」
「じゃあ何なの」
彼は少し考えた。三歩ぶんくらい考えた。
「誰かがそこにいるって写真だよ」
彼は自販機の前で止まった。
「うわ」
「今度は」
「猫が空き家にいる」
「入っちゃだめでしょう」
「猫は不法侵入にならねえんだよ」
彼は十九分動かなかった。私は、六十一枚の写真に一度も写らなかった手のことを、そのあいだ考えていた。
なお彼は、翌週にはこの事件のことを、きれいさっぱり忘れていた。




