夏休みの最終日
八月三十一日。
苅田先生が、私を職員室に呼んだ。加湿器は止まっていて、代わりに扇風機が首を振っていた。首の戻るところで、金具の音が聞こえた。
「宿題の代行がある」
「代行?」
「そう。……字が違うのよ。三人分」
彼女はため息をついた。扇風機が、ちょうどこちらを向いた。
「毎年あるの。でも今年は、中身が良すぎる」
三冊の数学のノートが、机に並んでいた。
字は三人分、それぞれ違う。宿題を写したのではない。それぞれの生徒の字である。
「じゃあ、本人が書いてるんじゃ」
「書いてるの。写してるだけ」
先生は、一冊を開いた。
「元があるの。三人とも、同じ元を写してる」
「一つめ、改行位置」
ドパガキは、三冊を写真に撮って並べた。
「三人とも、同じところで改行してる」
「ノートの幅が違うのに?」
「そう。三人ともノートの罫線の幅が違う。B罫、A罫、方眼だ」
彼は、三枚の写真に横線を引くように指を動かした。三本の指が、同じ位置で止まった。
「なのに、改行位置が全部同じ」
「意味があるの」
「ある。画像を見ながら写してるんだよ。紙じゃない」
彼は、指を紙から離した。
「紙を写すなら、自分のノートの幅に合わせる。画像を見ながらだと、画像の改行をそのまま真似る」
「二つめ、余白」
彼は、ページの端を拡大した。
「三冊とも、右の余白に小さい字で一行書いてある」
私は覗き込んだ。
『ここは分母を先に払う』
『三行目で符号が変わる』
『図を描くと早い』
「ヒントね」
「ヒントだ。……で、三冊とも内容が違う」
「元が同じなら、同じになるんじゃ」
「そう思うだろ」
彼は、三つの余白を並べた。
「三人の間違えやすいところに合わせて書いてある」
「三つめ、時刻」
彼は、三人のアカウントを調べた。
「三人とも、八月に同じアカウントとやりとりしてる。……で、送られてきたのは深夜二時台だ」
「三人とも?」
「三人とも。全部、深夜一時から三時のあいだ」
彼は、画像のデータを開いた。
「で、決定打。……送られてきた画像、撮影場所が全部同じだ。で、うちの学区の中にある」
相原景の部屋は、二階だった。
私は、初めて中に入った。机が一つ。椅子が一つ。ベッドが一つ。本棚は無い。無いものが多すぎて、何が足りないのかが、すぐには見えなかった。
窓から、通学路が見えた。カーテンが半分だけ開いている。半分だけ開けるというのは、見るためであって、入れるためではない。三か月、この人はその半分の隙間の内側にいた。
彼は痩せていた。去年と同じくらい痩せていた。
「やってます。一件千円です。三人で、夏で九千円でした」
「なんでやってるの」
私が聞くと、彼は少し黙った。
「金がいるわけじゃないです」
「じゃあ」
「……頼まれるんで」
彼は、机の上のノートを閉じた。
「僕、学校あんまり行ってないじゃないですか。でも、成績だけはついていってて。……で、去年、一人に頼まれて」
「断れなかったの?」
「断らなかったです」
彼は、そこを訂正した。
「頼まれたの、久しぶりだったんで」
私は風紀委員である。
止めなければならない立場だった。実際、私はそう言うつもりで来ていた。言葉も、電車の中で三回組み立ててきた。
ドパガキが先に喋った。
「相原。余白の一行、あれ、頼まれてねえだろ」
相原の肩が、動いた。
「……頼まれてないです」
「三人ぶん、内容変えてんだよな。あいつらの間違えやすいとこ、全部把握してる」
「……はい」
「一件千円で、答えだけ渡せば終わりだ。あんた、余計なことしてる」
彼は、ノートの写真を机に置いた。
「頼まれてねえのに書いてんだよ。……あんた、教えたいんだろ」
相原景は、答えなかった。それから、たぶん一分くらい黙って、こう言った。
「教えたいです。……でも、教える資格ないんで」
「資格?」
「学校行ってないんで」
ドパガキは、窓のほうを見ていた。
彼が座っていた場所からは、通学路が見える。八月三十一日の夕方で、自転車が一台通っていった。制服ではない。夏休みの最終日である。この人は、通る人の時刻を覚えるくらい、そこを見ていた。覚えるつもりで見ていたのではないと思う。
「あんた、三か月、そこ見てただろ」
「……はい」
「誰が何時に通るか、全部わかるんだよな」
「わかります」
彼は、窓から視線を戻さなかった。
「それ、資格じゃねえの」
代行は、その日で終わった。
三人の宿題は、提出されなかった。三人とも、九月に居残りで解き直した。苅田先生は、代行者の名前を聞かなかった。
「聞かないほうがいいと思ったの」
先生は、あとでそう言った。
「なんでですか」
「その子、たぶん、うちの生徒でしょう」
彼女は、扇風機を止めた。
「うちの生徒なら、九月に何かするから」
九月、相原景は新しいアカウントを作った。数学の解説を、一日一問だけ上げるアカウントである。
答えは書いていない。ヒントだけが一行書いてある。名前を出していた。本名である。
フォロワーは、いま六十四人いる。全員が、うちの学校の生徒である。
帰り道、私はその数を口に出した。
「六十四人」
「うん」
「多いの?」
「少ねえよ」
彼は、そこで指を折りはじめた。
「でも、六十四人が毎日一問ずつ解いてる」
彼は自販機の前で止まった。
「一年で二万三千問だ」
「そういう計算するの、やっぱりあなただけよ」
「うわ」
「今度は」
「猫が宿題やってる」
「猫は宿題ないでしょう」
「ノートの上で寝てる」
「それは邪魔してるのよ」
「そうだよ。猫はいつも邪魔してる」
彼は十五分動かなかった。私は、二万三千という数を、そのあいだ一度も検算しなかった。検算する気にならなかった。六十四掛ける三百六十五という掛け算に意味があるのかどうかも、わからない。ただ、六十四人が毎日一問ずつ解いているというのは、私にも数えられる形をしていた。
なお彼は、翌週にはこの事件のことを、きれいさっぱり忘れていた。




