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教える人

 八月の中頃、三年D組の木津さんが生徒会室に来た。

 夏期講習の帰りらしい。参考書を三冊抱えていて、そのうちの一冊の角が潰れていた。持ち歩いている本の潰れ方である。

「変な相談なんですけど」

 彼女は、その三冊を机に置いた。

「私が見てる授業動画、うちの学校のプリントと同じなんです」


 その動画は、私も名前を知っていた。

 数学の解説動画である。大学生が一人で作っていて、登録者は九万人いる。無料で、丁寧で、わかりやすい。

 三年生の半分くらいが見ていると思う。

「同じって、どのくらい」

「順番も、例題も、図も、全部です」

 彼女はプリントを出した。折り目の付いた、コピーである。

 苅田先生ではない。数学の佐分利先生の、自作プリントだった。


「一つめ、例題」

 ドパガキは、プリントと画面を並べた。

「二十四問。全部同じだ」

「教科書の問題じゃないの?」

「違う。教科書のは十六問しかない。……残り八問が完全に一致してる」

「先生の自作ね」

「そう。……で、二つめ」

 彼は、プリントの図を拡大した。

「この図、三角形の頂点の角度が微妙に変だ。手で描いてるからな」

 彼は、動画の図を並べた。私は、二つを見比べた。並べられて初めて、二つの三角形が同じ形に歪んでいることがわかった。

「動画のも、同じ角度で変だ」


「三つめ、間違い」

 彼は、十七問目を指した。

「先生のプリント、ここ、答えが間違ってる」

「え?」

「計算ミスだ。7が9になってる」

 彼は動画を再生した。

 大学生が、同じ問題を解説していた。丁寧な喋り方である。声が優しい。答えは、9だった。

「途中まで正しく計算して、最後だけ9って書いてる」

 彼は、再生を止めた。

「答えを見ながら喋ってるんだよ。間違ってる答えを」


「で、決定打」

 彼は、プリントの端を拡大した。

 そこに、小さく年度と、印刷所の番号が入っていた。私は、三年間このプリントを受け取っていて、そこを見たことがなかった。言われて目を凝らして、やっと読めた。

「このプリント、四年前のやつだ」

「四年前?」

「番号が古い。……で、動画は二年前から始まってる」

 彼はスマホを机に置いた。

「四年前にこのプリントを持ってた人間だよ」


 山室さんという人だった。

 うちの学校の卒業生である。四年前に卒業して、いまは県外の大学の四年生だった。私たちは電話で話した。彼は逃げなかった。

「使ってます。佐分利先生のプリント、家に全部あります。三年分」

「許可は」

「取ってないです」

 電話の向こうで、椅子が鳴った。

「取ろうと思って、二年間、取れてないです」


「稼いでんの?」

「稼いでます。月に、十五万くらいです。……学費と生活費です」

「出典書かないのは」

「書いたら、自分の実力じゃなくなるからです」

 彼は、そこで少し声を落とした。

「九万人が『わかりやすい』って言ってくれるんです。……あれ、僕の力じゃないんですよね。プリントの力なんですよね」


 ドパガキは、しばらく黙っていた。

「わかるよ。オレも、他人の作ったもんで褒められたら、たぶん出典書かねえ。バレるまで黙ってる」

「……はい」

「でもさ。あんた、十七問目、間違ってるほうで喋ってんだよ」

 電話の向こうが、静かになった。椅子の音も止まった。

「四年前のプリントの計算ミスを、二年前の動画で、そのまま喋ってる。……で、九万人の誰も指摘してない」

 彼は、スマホを机の真ん中に置き直した。

「あんた、自分で解いてねえんだよ、あれ」


「出典に名前書けよ」

「……」

「『瀬々良木高校 佐分利先生の教材を使用しています』でいい。十文字ちょっとだ」

 彼は、画面を伏せた。

「あんたが一番、あの人に教わってんだろ」


 山室さんは、二週間後に一本上げた。

 十二分ある。プリントの出典と、四年前のことと、十七問目の計算ミスの話だった。登録者は、三千人減った。

 そして、四か月で七千人増えた。


 佐分利先生には、木津さんが話しに行った。先生は、しばらく黙っていたらしい。

 それから「あいつ、まだ数学やってるのか」と言ったそうである。

 怒ったのかどうかは、木津さんにもわからなかったと言っていた。


 帰り道、私はその差し引きを計算していた。

「三千人減ったのね」

「減ったな」

「損した?」

「してねえだろ」

 彼は、歩幅を変えずに続けた。

「三千人は、あの人が作ったと思って見てたんだよ。それが違うってわかったから抜けた」

「じゃあ」

「残った八万七千人は、わかったうえで見てる」

 彼は、そこで少し肩をすくめた。

「そっちのほうが、たぶん強いぞ」


 彼は自販機の前で止まった。

「うわ」

「今度は」

「猫が数学教えてる」

「教えられるの」

「教えられてない。キーボードの上に座ってる」

「……」

「出典は書いてある」

 彼は十二分動かなかった。八月の夜は、自販機の前だけが明るい。虫が二匹、光の周りを回っていた。私は、その二匹を数えるともなく数えていた。私は、その十二分のあいだ、四年前のプリントのことを考えていた。四年前に配られた紙が、九万人に届いている。作った人はそれを知らずに、いまも同じ紙を配っている。


 なお彼は、翌週にはこの事件のことを、きれいさっぱり忘れていた。


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