声が高すぎる
七月の終わり、裏アカに音声が上がった。
夏休みに入って四日目である。学校には、部活の生徒しかいない。それでも、話は半日で回った。人がいなくても、噂は回る。むしろ、そのほうが速い。
四十七秒。教師が生徒を罵倒している音声である。声の主は、うちの学年主任だとされた。
「本人は否定してます」
三浦亮太は、イヤホンの片方を私に渡してから、そう言った。
「否定するでしょう、そりゃ」
「でも、聞いた人はみんな『あの人の声だ』って言うんです」
私も聞いた。
たしかに、そう聞こえた。四十七秒のあいだ、一度も疑わなかった。学年主任の声を、私は三年間聞いている。朝礼でも、集会でも、注意されるときにも聞いた。聞き慣れた声だと思っていた。聞き慣れた声を、私は四十七秒のあいだ一度も確かめなかった。
「一つめ、ピッチ」
ドパガキは、波形を出した。
「これ、加工されてる。下げてる」
「声を変えてるってこと?」
「元の声が高い。それを下げて、あの人の声域に寄せてる」
「そんなことできるの」
「できる。アプリで三十秒だ」
「二つめ、子音」
彼は、音声を拡大した。
「ピッチを下げると、子音がついてこない。サ行とタ行の破裂が、ぐしゃっとなる」
彼は、該当箇所を再生した。私は、三回聞いて、三回目でようやくその潰れがわかった。わかってしまうと、もう元には聞こえなかった。
「本物の低い声は、こうならない。低い声は、子音も低いところで鳴るからだ」
「三つめ、息継ぎ」
彼は、間の部分を再生した。
「息を吸う音が入ってる。……で、息継ぎの間隔が短い」
「短いと?」
「若いんだよ。肺活量が違う」
彼はスマホを机に置いた。
「四十七秒で、息継ぎが十四回。学年主任、五十過ぎだろ。あの人ならもっと少ない」
「で、決定打」
彼は、最後の三秒を再生した。そこで、誰かが笑った。短い笑い声である。
「ここ。笑い声だけ、加工が甘い」
「甘い?」
「笑い声は音が急に変わる。加工が追いつかないんだよ。……ここだけ、元の声が出てる」
彼は音量を上げて、もう一度再生した。高い声だった。
明らかに、若い人の声である。私の背中が、そこで初めて冷たくなった。四十七秒のうち、〇.四秒だけ、本人が出ていた。
一年D組の牧くんは、認めるのに時間がかからなかった。
「作りました」
「なんで」
「面白いと思って」
「面白い?」
「学年主任の物真似、僕、得意なんです。クラスでウケてて」
彼は、少し笑った。それがすぐに消えた。
「それを、加工して上げたら、もっとウケると思って」
「バレると思ってた?」
「バレると思ってました」
彼は即答した。
「加工、雑なんで。聞けばわかると思ってて。……『うますぎ』とか言われて終わると思ってました」
「思わなかったのね」
「思わなかったです」
彼は下を向いた。
「みんな、本物だと思って」
ドパガキは、壁にもたれていた。廊下の壁は、七月でも冷たい。
「わかるよ。オレも、これ本物だろって思って回したこと、何回もある。あとで違うって知って、そのまま忘れる」
彼は、壁から背中を離した。
「で、あんた。バレると思ってただろ」
「……はい」
「バレねえよ」
彼は、初めて牧くんを見た。
「誰も確かめねえんだよ、いまは」
牧くんが、顔を上げた。
「四十七秒だぞ。確かめるには、波形見て、子音聞いて、息継ぎ数える。……三十分かかる」
彼は肩をすくめた。
「三十分かけて確かめる奴が、この学校に何人いる」
牧くんは、自分で名乗り出た。
裏アカに、加工前の音声と、加工の手順を上げた。誰にも言われずに、そうした。音声は消えた。学年主任の件は、二週間で収まった。
収まったというより、次の話題が来た、というのが正確だと思う。夏休みの噂は、賞味期限が短い。
牧くんは、物真似をやめた。
「やめなくていいのに」
私が言うと、彼は首を振った。
「うまくなりすぎたんで。……本物みたいになったら、もう、面白くないんで」
学年主任は、牧くんを叱らなかった。代わりに、全校集会で五分間、この件の話をした。
内容は「音声は加工できる」という説明である。それだけだった。誰かを責める言葉は、一つも入っていなかった。
私は、その五分間が、この学校で一番まともな指導だったと思っている。まともなのかどうか、いまでも私にはよくわからない。
帰り道、私はそのことを言った。
「あの先生、いい人ね」
「まあな」
「あなた、あの人のこと嫌いだったでしょう」
「嫌いだよ。授業がつまんねえ」
彼は、あっさり言った。
「でも、あれはよかった」
「どこが」
「怒らなかったとこじゃなくて」
彼は、足を止めた。
「説明したとこだよ」
彼は自販機の前で止まった。
「うわ」
「今度は」
「猫が喋ってる」
「猫は喋らないでしょう」
「加工だ。人間の声を上げてる」
「……」
「下手だな、これ」
「わかるの?」
「子音が潰れてる」
彼は十六分動かなかった。私は、その十六分のあいだ、〇.四秒のことを考えていた。四十七秒のうちの〇.四秒である。百分の一より少し多い。その百分の一を聞き取れる人が一人いて、残りは全員、四十六秒六のほうを本物として聞いた。多数決なら、四十六秒六が勝つ。
なお彼は、翌週にはこの事件のことを、きれいさっぱり忘れていた。




