いない猫
六月の終わり、市内で猫が一匹いなくなった。三毛の、右耳が欠けた猫である。名前はミケ。
捜索アカウントが立ち、拡散依頼は八百回を超えた。目撃情報が四十件寄せられた。市内の掲示板に貼り紙が出た。うちの生徒も、何人か探しに行った。
三週間経っても、見つからなかった。
「猫の話、やんの?」
ドパガキは、いつになく乗り気だった。梅雨の湿った教室で、彼だけが起きていた。
「猫だからでしょう」
「猫だからだよ」
彼は椅子を引いた。
「拡散の樹形図が見たい。あと写真、全部」
「一つめ、毛並み」
彼は写真を七枚並べた。
「七枚ある。全部同じ猫ってことになってる」
「違うの?」
「三枚目と五枚目、右耳が欠けてない」
私は覗き込んだ。たしかに、そう見える気もした。だが自信はなかった。猫の耳の形を、私はそれまで一度も見比べたことがない。見比べるものだと思っていなかった。同じ模様の猫が七枚並んでいれば、私はそれを七枚とも同じ猫だと思う。思うほうが普通だと、いまでも思っている。
「角度じゃなくて?」
「角度じゃない。耳の輪郭が丸い。欠けてる猫の耳は、ここが直線になる」
彼は、その直線を指でなぞった。なぞられて、初めて私にも見えた。
「あと、六枚目。尻尾の縞が四本だ。他は五本」
私は数えた。四本だった。
「別の猫だ。七枚のうち三枚が、違う猫だよ」
「二つめ、撮影日」
彼は写真のデータを開いた。
「四枚が去年の秋。二枚が三年前。一枚が今年の五月」
「三年前?」
「三年前だ。……で、いなくなったのは今年の六月だってことになってる」
彼はスマホを机に置いた。
「三年前の写真を『先月の様子です』って出してる」
「三つめ、文面」
彼は、拡散依頼の文章を出した。
「これ、テンプレだ。ネットに転がってる『迷子ペット拡散文』のひな型と、九割一致してる」
「よくあることじゃない?」
「よくある。……でも、このアカウント、拡散依頼の文だけ上手すぎる」
彼は、普段の投稿を出した。誤字がある。改行が雑である。
「で、拡散依頼のときだけ、完璧な文章になる」
「で、決定打」
彼は、目撃情報の一覧を出した。
「四十件ある。……で、そのうち三十七件に、アカウント主が返信してる」
「丁寧なのね」
「丁寧すぎるんだよ」
彼は、返信の時刻を並べた。
「深夜二時の目撃情報に、二時四分に返してる。朝五時に、五時二分。……二十四時間、三週間、全部だ」
彼は、その列を上から下まで指でなぞった。
「猫を探してる人間は、返信より先に、現場に行く」
アカウントの主は、三年生だった。
穂積さんという、私は名前も知らない生徒である。
彼女は否定しなかった。
「いないです。ミケは、いないです」
「最初からいないの?」
「三年前に、いました」
彼女は、鞄を膝の上に抱えたままだった。
「本物のミケです。右耳が欠けてて。……三年前の八月に、いなくなりました」
「見つかったの?」
「見つかってないです」
彼女は、自分の膝を見ていた。
「あのとき、私、同じことをしました。写真上げて、拡散してくださいって書いて」
「……」
「十二人しか、回してくれなかったです」
私は、そこで何も言えなくなった。
「十二人でした。三年前」
彼女は、鞄の持ち手を握り直した。
「今回、八百人です。目撃情報が四十件来ました。知らない人が探しに行ってくれました。……ぜんぶ、いない猫のためにです」
彼女は少し笑った。
「三年前より、私、文章が上手くなってました」
ドパガキは、しばらく黙っていた。窓の外で、雨がまた強くなった。
「わかるよ。善意はな、一番速く回るんだよ。悪意より速い。オレも回す。中身確認しないで回す」
彼は、机に肘をついた。
「で、あんた、それに気づいちゃったんだよな」
穂積さんは、うなずいた。
「三年前と何が違うか、三週間考えました。写真の枚数と、文章と、返信の速さでした」
彼女は、そこで鞄を膝から下ろした。
「猫は関係なかったです」
「なあ」
「はい」
「三年前の十二人、覚えてるか」
彼女は顔を上げた。
「……覚えてます」
「言ってみ」
彼女は、十二人の名前を言った。
一人も詰まらなかった。私は、その十二人を数えながら聞いていた。八人目のところで、雨の音が一度大きくなった。
「今回の八百人は」
彼女は答えなかった。
「一人も知らねえだろ」
「……はい」
「うん」
彼は、スマホを机に置いた。
「十二人のほうが多いぞ、それ」
アカウントは、その夜に消えた。
穂積さんは、四十件の目撃情報に、一件ずつ謝罪の返信をした。三日かかったらしい。そのうち十一件から、返事が来た。
「猫、見つかるといいですね」と書いてあったものが、四件あった。
彼女はそれを、いまも消していない。
帰り道、雨は上がっていた。
「怒られると思ってた?」
「あんたに?」
「私に。風紀委員だから」
「怒りゃいいだろ」
「怒れなかったわ」
「だろうな」
彼は、濡れたアスファルトを見ながら歩いていた。
「三年前の本物のとき、誰も来なかったんだよ。それが全部だ」
「……」
「あれは、猫を探してたんじゃない。三年前をやり直してたんだよ」
「うわ」
彼は珍しく、すぐにスマホを閉じた。
「いや、いい」
「何」
「猫の迷子情報」
「……」
「回すか?」
私は、少し考えた。
「回しましょう」
「うん」
彼は回した。私も回した。
その猫が見つかったのかどうか、私たちは知らない。回したあと、私はそのアカウントを一度も開いていない。開けば、たぶんわかる。開かなかったのは、見つかっていなかったときのことを考えたからである。三年前の十二人も、たぶん同じ理由で、そのあと開かなかったのだと思う。




