電車の八分
六月の半ば、依頼が来た。依頼人は、事件の当事者ではなかった。
一年C組の梶井くんは、生徒会室に入ってから、椅子に座るまでに一分かかった。
「同じ車両にいました。見てました。八分間」
彼は、そこで一度息を吸った。
「……何もしてないです」
三年A組の里見くんが、電車内で疑われた。
八分間の出来事である。警察が来る手前で止まったが、噂だけが残った。彼は今週から学校に来ていない。
「僕、証言できなかったんです」
梶井くんは、膝の上で拳を作っていた。
「大人が四人いて、みんな『そうだ』って言ってて。……一年が『違います』って言っても、聞かれないと思って」
彼は下を向いた。
「でも、違うんです」
「一つめ、車両」
ドパガキは、机に伏せたままだった。
「その時刻の、その電車、乗ってた高校生は何人だ」
「わかんないです」
「調べる」
彼は起き上がった。
「その日、その時間帯に、車内で撮った動画を全部拾う」
「そんなのあるんですか」
「あるんだよ。みんな撮る」
三日で、十七本集まった。
うちの生徒のもの、東雲のもの、大学生のもの、社会人のもの。どれも事件を撮ったものではない。ただの車内である。友達を撮ったもの、車窓を撮ったもの、自撮り、寝ている人の顔。
私は、十七本を通しで見た。事件は、一本も写っていなかった。
「写ってなくていい」
彼は、私の顔を見ずにそう言った。
「車内の配置がわかればいい」
「二つめ、車窓」
彼は十七本を並べた。
「窓の外の景色の順番で、どの区間かがわかる。……鉄橋、団地、パチンコ屋、トンネル」
彼は、時刻を割り振っていった。私には、同じような灰色の流れにしか見えなかった。彼は、パチンコ屋の看板が二回映る本と一回だけの本を分けていた。
「事件は、団地とトンネルの間の八分だ」
「三つめ、広告」
彼は、車内の中吊りを拡大した。
「広告の位置が本ごとに違う。……これで、撮影者が何号車のどこにいたかが割れる」
彼は、紙に車両の図を描いた。十七個の点が打たれた。点が打たれていくうちに、車両の形がだんだん埋まっていった。
「で、この六本に、里見が写ってる」
「写ってるの?」
「端にな。誰も里見を撮ってない。たまたま入ってるだけだ」
彼は、六本を並べた。
「六本、時刻がばらばらだ。事件の三分前、二分前、四十秒前、途中、そのあと、降りたあと」
彼はスマホを机に置いた。
「で、決定打」
彼は、六本を順番に再生した。
映っているのは、車両の端に立つ、背の高い男子生徒の後ろ姿である。六本とも、同じ姿勢だった。
両手で、上の手すりを掴んでいた。
「三分前も、四十秒前も、途中も」
彼は、六本を一度に並べた。六つの背中が、同じ形で並んだ。
「八分間、一度も両手を離してない」
私は、その並びを三回見た。
そして、少し気持ちが悪くなった。両手を離さなかったのは、たぶん偶然ではない。
「この人、わざとやってるわね」
「そうだろうな」
ドパガキは、短く答えた。
「体でかいからな。……そういう癖がついてる奴は、けっこういる」
私は、それ以上聞かなかった。聞いたところで、この人が悪いわけではない。
映像は、里見くんの家に届けられた。
彼の親が、それを持って行った。どこに持って行ったのかは、私は知らない。二週間後、彼は学校に戻ってきた。
噂は、完全には消えなかった。八分間の中で何があったかを、映像は結局、証明していないからである。
証明したのは、彼が何もしていない八分間があったことだけだった。
梶井くんには、私が最後に会った。
「証言、しなくてよかったの」
彼はうつむいた。
「できなかったです」
「……」
「大人が四人いて、僕が一人で。……声が出なかったです」
私は、何と言えばよかったのか、いまでもわからない。そこで、ドパガキが口を開いた。
「あんたさ。あの日、大人四人の前で喋れなかったんだよな」
「はい」
「で、オレんとこ来ただろ」
梶井くんが、顔を上げた。
「三日かけて調べて、生徒会室のドア叩いて、一年が三年に相談しに来たんだよ。……それ、声出てるぞ」
「あの、」
梶井くんは、鞄の中に手を入れた。
「僕、あの日、撮ってました」
「撮ってたの?」
「撮りました。でも、怖くて消しました。その日の夜に」
彼は、自分のスマホを握っていた。握りすぎて、指が白かった。
「復元できますか」
ドパガキは、少し黙った。
「三十日以内なら、たぶん」
「……お願いします」
その映像に何が写っていたのか、私は見ていない。見なくていいと言われたからである。
ドパガキも見ていないと言った。私はそれを、たぶん信じている。
帰り道、彼が立ち止まった。
「うわ」
「今度は」
「猫が電車乗ってる」
「乗れるの?」
「駅員が抱いてる」
「……大丈夫なの、それ」
「大丈夫だ。駅員、両手ふさがってる」
彼は十三分動かなかった。私は、その十三分のあいだ、両手という言葉を何度か考えた。両手が塞がっている人の写真を思い出そうとして、一枚も見えてこなかった。
なお彼は、翌週にはこの事件のことを、きれいさっぱり忘れていた。




